おおしろ(ひが)スサーナ。
2014年に桜美林大学を卒業。ルーツはペルー。 メキシコ企業の社員として品質管理の業務に就きながら、ペルー共生協会[AJAPE(アハペ)]の活動にも携わっている。 |
会社とアハペの活動の両立
アハペは共生協会[AJAPE]です。
ここでは子どもたちの日本語教育や生活指導のサポートなどを行っています。
私は週に4日通っていますが、役に立ちたい一心で続けてきましたし、好きなことだから負担には感じていません。
アペハを知ったのは、2009年に文部科学省から「虹の架け橋教室」という支援事業が実施されて、そこで開かれたバイリンガル教員講座を受け、教員募集に応募したことがきっかけです。
来日したきっかけ。
1990年代のペルーはテロリストがとても多かった時代で、1996年には日本大使公邸占拠事件が起きるなど、日系人が危険にさらされていました。〔※〕
両親は弁護士だったのですが、テロリストはそういった知識人を利用しようとするので、従わないと襲撃される恐れがあります。当時小学6年生だった私は突然、両親から日本に行くと言われ、どうしてなのか理解することができませんでしたが、私たち家族がかなり危険な状況にあったということを後から聞いて、日本に来る選択しかなかったのだと分かりました。
両親は子どものことを第1に考えて、日本という安全な国を選んだのです。
日本では家族5人だけで周りには知り合いもなく、言葉も分かりません。
まったくゼロからのスタートでしたが、日本語は2年間くらいでマスターできるようになりました。
日本語教師を目指す
18歳の時はスペイン語の教師になるのが夢で第一志望の大学にも合格したのですが、難病にかかってしまい、一度は進学を断念しなければなりませんでした。
その後、アハペとの出会いもあって日本語教師として役に立ちたいと思うようになり、26歳の時にもう一度大学を目指しました。
桜美林大学では日本地域研究、日本語教育を専攻し、いろいろな国の友達と知り合うこともできました。
「さぽうと21」との出会い
大学3年生の時に、就職活動に向けて資格をたくさん取得しようと無理をし過ぎてしまい、病気が再発してしまったんです。
入院費がかかり金銭的にもかなり大変でしたので、インターネットで支援団体を調べて、「さぽうと21」を知りました。
大学4年生の時に1年間の支援をいただけることになり、無事に卒業することができました。
日本で暮らす外国人の子どもに必要な支援とは
親が自分たちの人生を捨てて移民となり、子どもたちの将来を考えてくれているのに、まだそのことに気づかず勉強しようとしない、チャンスを無駄にしている子がたくさんいます。
私も子どもたちの気持ちは理解できるので、アドバイスをしたり精神的にも力になりたいと思っています。
アハペでは出身国が同じ子どもたちもいるので、自分を理解してくれて、言葉の面でも支えてくれる仲間たちとも出会えます。
“同志”がそばにいるだけでも気持ちはかなり上がりますから、このような支援がもっと増えるといいと思っています。
〔※編集部注〕1996年12月17日(現地時間)、ペルーの日本大使公邸でのレセプションパーティー開催中に、ペルーのテロ集団・トゥパク・アマル革命運動が押し入り大使館員と現地職員を人質に立てこもった。「仲間の釈放」「身代金の支払い」等を要求したがペルー政府はテロリストとの交渉を拒否、事件は長期化した。97年4月22日特殊部隊が突入、人質は解放された。当時の大統領は日系2世のアルベルト・フジモリ。フジモリは1990年に貧困問題の解決を期待され初当選したが、外国資本寄りの政策を採用し民衆は不満をつのらせていた。