イランから難民として来日。父は23年間続けた仕事を40、50代になってすべて捨て祖国を離れる決心をした。【支援生】

アサイ剣。
1988年生まれ。ルーツはイラン。
講道館で柔道を習い”日本の柔道は人を傷つけるためではなく、自分を強くするため。人を投げる時も、その人がけがをしないように手を添える。”という精神に魅了される。

大学では航空機を構成する部品の研究に

青山学院大学工学部機械創造学科2年生で航空機を構成する部品の研究をしています。JAXA(宇宙航空研究開発機構)と共同で研究をすることもあり、ラボワークの研究室にも在籍して実験をしています。ばね状のものを作って、どのくらいの振動に耐えられるか、どの部分が振動を受けるのかなどを実験し、計算します。

日本駐在を経験しイランに帰国。1年後難民として来日

日本で暮らすのは今回2度目なのです。父が海外での勤務の多い仕事をしていたので、3年ごとに家族で外国に移り住む生活をしていて、日本には中学3年生から高校2年生までの3年間住んでいました。日本はハイテクの国というイメージを抱いて成田に降り立ちましたが、意外に自然も多く驚いたことが記憶にあります。その時は学校での勉強も食べ物はじめ普段の生活も、特にストレスもなく不自由ない環境で過ごしていました。話せる日本語は「こんにちは」「ありがとう」くらいでした。
 そしてイランに帰ってから1年後、高校を卒業した時に、今度は駐在とは違う形、難民として日本にきたのです。
 父は23年間続けた仕事を40、50代になってすべて捨て祖国を離れる決心をしました。そんな父には感謝し尊敬しています。

UNHCRの難民高等教育プログラムにチャレンジ

最初は家を借りることもできず、ウィークリーマンションや知り合いのところを転々とする生活でした。学校は東海大学の日本語コースで約1年半くらい日本語を勉強して、その後試験を受けて建築学科に入学しました。ものづくりが好きだったので、建築学科を専攻しましたが、もともと持っていた自分は飛行機が好きだという気持ちも捨てきれず進路について悩んでいました。そんな時、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の支援制度〔※UNHCRの難民高等教育プログラム〕があることを知って、ぜひチャンレジしたいとはっきりと目標を定めたのです。UNHCRに希望の大学に推薦してもらう制度なのですが、推薦してもらう試験に合格するまではとても大変でした。何度も何度もやりなおしてようやく合格し、晴れて青山学院大学に入学することができたのです。

「さぽうと21」の支援で青山学院大学への受験勉強を徹底的に。

飛行機が好きというだけでどうしたらいいか全くわからなかったのですが、さぽうと21のスタッフの方が人生相談、進学についてなどの相談にのってくださいました。青山学院大学への入学の準備は直前まで週に何回も数学の復習に通いました。数学は全てつながっているので、基礎があやふやだと大学の専門的な勉強についていくことができません。私の場合、母国で学んでいた頃から時間的にブランクがあったこともあり、数学、物理、化学を入学後の水準に合わせるために徹底的に復習に取り組みました。理工学部に入ると日本語の勉強をしてはいられませんので、専門用語もこの時に学びました。その時さぽうと21で教えてくださった先生は、退職後にボランティアで教えてくださっていた方で、自分の時間を割いてとことんつきあってくださいました。私のために事務所に通って、マンツーマンで大変親身になって教えてくださいました。この個別指導がなければ、今の私はありません。いつも心から感謝しています。

日本は安全できれいな国

日本のきれいさ、日本の丁寧さ、日本人のおもてなしの精神に、感動しました。今、安全できれいなところに住むことができてとても感謝しています。

イランへの思い

今私の家族はイランに帰りたくても帰ることができません。イランは母国、ペルシャ語は自分の言葉、そしてイランの歴史、イランの人々は大好きです。ですが、今、イラン国内では命をかけて政府と戦っている人たちがいます。何も悪いことをしていなくても自由が奪われたりつらい目にあっている人々がたくさんいます。本当に残念で悲しく許せない気持ちでいっぱいです。私の力でできるとしたら、絶対なにかしたいと思っています。

人に喜んでもらい残る仕事をしたい

授業はとても大変で毎日泣きたいときもありますが、せっかくの学ぶチャンスを生かして一生懸命勉強を続けていきたいと考えています。漠然と飛行機関係の研究と思っていましたが、勉強が専門的になるにつれ、材料や熱について興味が向いてきました。もっと深く勉強して少しでも自分の仕事が人に喜んでもらって残っていくような仕事をしていきたいと思っています。


※この記事は、さぽうと21創設35周年記念誌『社会福祉法人さぽうと21の記録 36年目からの挑戦(2014年刊)』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。

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