恵まれない人たちをグローバルに支援すること。それがわれわれの世代の務めです。吹浦忠正

ふきうら・ただまさ
1941年秋田県生まれ。日本で開催した全4回のオリンピックで国旗や儀典に関わる。
難民を助ける会副会長(現・特別顧問)、埼玉県立大学教授、拓殖大学客員教授などを経て、現在、評論家、社会福祉法人さぽうと21、ユーラシア21研究所各理事長、日本遊技関連事業協会理事、献血供給事業団監事、協力隊を育てる会参与、東京コミュニティカレッジ理事、法務省難民審査参与員、東京ニューシティ管弦楽団理事、世界の国旗・国歌研究協会共同代表。

自分を貫いた少年時代

父のDNA

父は、よく言えば信念を持つ、悪く言えば、あんまり時代に流されない男で。
例えばこんなことがありました。
松岡洋右外相が1940年、日独伊三国軍事同盟を結ぶときに、秋田市の隣の今の男鹿市船川港町から船でウラジオストクへ行って、そこからシベリア鉄道でベルリンに行ったんです。
そのときにみんなで送っていって「松岡洋右外務大臣、万歳」とやったときに、親父だけ「ばか野郎!」と言っちゃった。
この同盟に危険を感じていたんですね。

国際感覚というほどの人ではなく全く田舎のおやじですけれども、とにかく日本という国はみんなと仲良くしなきゃ大変なんだと、どちらについたらいいか分からない時には、実力を保ちつつ、どちらにもつかないのが一番いいんだと言っていた。

論理性とか保証とかはないですが、今にして思えば、言っていることは的確でした。

それは戦後も変わりませんでした。
占領軍として米軍が来た頃、私は幼稚園生だったんですけれども、ある日、「サザンカ、サザンカ、咲いた道」の童謡「たき火」を習って、一刻も早く母の前で歌いたいと思って帰路を急いでいました。

ところが、米軍が川のところの道でちょうど行進していて、通れないのです。
私はそこへ突っ込んでいったんですよ。
そうしたら、ピーッと笛が鳴って、米軍はその幼稚園生、つまり私を、反対側まで通したんですね。
そしたら、うちのおやじは警察に呼ばれて「おまえの息子はけしからん」とやられた。
「4歳の子どもに、どこで止まって、どこで進めなんてことは誰が指導できる。
指導できるならやってみろ!」と言い返したそうです。
そういう根性というのかな、その辺はDNAにあるなと思いますね。

やんちゃな少年

中学1年のときの英語の教科書、最初のレッスン1は「I am a boy. I am a girl.」です。

私は、「アメリカ、イギリスでは『僕は少年です。私は少女です』と言わなければ、少年と少女の区別が付かないんですか」と聞いた。
正直でしょう(笑)?
それでレッスン3は「This is a pen. This is a notebook.」。
今度は「アメリカ人やイギリス人はペンとノートの区別が付かないんですか」と聞いて、そこまでで止めておけばまだかわいかったんだけど、「そんな国と戦争して、先生たちは負けたんですか」と。
その英語の先生は、海軍兵学校の出だったとかでこれは殴られた、殴られた。

もうそれですっかり英語というのが嫌になっちゃった。
小学校で体育が嫌になり、中学で英語が嫌になり、高校では数学が嫌になってね。
logだとかサイン、コサイン、タンジェント、インテグラル、いろんな記号があるじゃない?
いろんな先輩や仕事をしている人たちに、「ああいったものを、学校を出てから使ったことはありますか」と聞いたら、全員が「ない」と言う。
そんなものを今やるのは、どう考えても時間の無駄だと。
それで、高校時代の数学の試験は完全放棄。

「不良?少年」、赤十字に出会う

人道的なものについて、はじめに興味を引かれたのは中学の頃。
炭坑が落盤などいろんな事故を起こした時代です。

三池炭坑とかで落盤で大勢亡くなったりしていました。
そのときに、同級生の女の子が「炭坑の子どもたちを救おう」という教室募金をやったんです。
でもみんな、あんまりそれに共鳴しなかったので、かわいそうだと思ったから、「じゃ、俺もしてあげるよ」とやって、それで不良少年が何か少しは良いことをしたと、はっきり言っていい気分になったんです。

高校では、3年生の先輩にうまいことだまされた。
「この学校は各クラスに青少年赤十字の団員が2人ずついるんだ」って言われてね。
入学したばっかりだから、分からないわけよ。
それで「ああ、そうですか」と言って。
そして、隣のクラスのかわいい女の子もその委員をやっているというんでね。
極端に言えば、スケベ心で入ったようなもんです。
でも、「やっていることがいろいろ面白そうだから入っておくよ」と。
でも、そのときは吹奏楽部に入っていたから、そのほうが熱心でした。

1956年「ハンガリー動乱」がありました。

それで動乱の犠牲者たちのために募金しようということになりました。
今でも覚えていますが、猛吹雪の中で秋田駅前に立って。
でも、人さまに声を出すなんて、やったことがないわけですよ。
「ご通行中の皆さま」なんていうのはね。
それを、また先輩たちから厳しく「声が小さい」と叱られる。
確かに上級生というのはみんな、大きな声が出る。
あれで鍛えられました。

今はどんなところでも、その場にあった、いや、少し大きすぎる声が出るようになったし、そんな中で、国際的なことにも大変興味を持つようになっていきました。

例えば、そのときにハンガリーでモスクワから来たワルシャワ条約軍に抵抗する人たちは、赤白緑の横3色旗(国旗)の中央に付いていたハンマーと麦という紋章を切り抜いて、掲揚して抵抗していました。

そういう厳しい国際情勢下に世界があるんだということを勉強したし、国旗というものはものすごく政治を反映しているんだということも学びました。

「ハシ先生」との出会い

高校2年の終わりに第3回青少年赤十字全国スタディーセンターというのが伊勢市で開かれて、私は橋本祐子先生(「ハシ先生」)という方に出会います。

AARのチャリティ・コンサートなどに美智子上皇后陛下がよくいらしてくださるのも、陛下と吹浦にとって「ハシ先生」が共通の師匠のような存在だからというのが大きいのです。

「ハシ先生」にありとあらゆることを啓発されたというか、何ていうのか、「目覚め」させられたのです。
先生は、「人間誰にでもこれという出会い、encounterがある。
それを見定めて、大事にしなくてはいけない、とおっしゃっていました。
「邂逅」とでもいうべきかな。

母からも、「いつまでもあると思うな親とカネ ないと思うな運と災難」と聞かされていましたから、心にビシッと来ました。

ハシ先生は、1910(明治43)年生まれで、当時は日本赤十字社(日赤)の青少年課長でした。
その頃の日赤は男尊女卑ですから、女性は絶対に部長にもなれない。
しかし、この人は国際赤十字の最高勲章であるアンリー・デュナン記章を東洋人で初めて、女性で初めて、平時活動、つまり戦争と関係ない事業で初めて受章した人です。

今でも世界中にその人の弟子がいて、「国際的なマフィアじゃないか」と僻まれるほどの連携ぶりです。
英語と日本語のお話が実にうまく、きれいな声でね。
その〝橋本スクール〟と称している仲間には各界で活躍するいろんな人を輩出しています。

1964年の東京パラリンピックの時には、「車椅子の方たちは来日すると日本語という新しい障害を持つのよ。みんなで通訳ボランティアをしましょう」と200人近い学生たちを集めました。

東宮と美智子妃(当時)が大きく後押ししてくれたのです。

当時、「ハシ先生」は、国旗を通じた国際理解と友好を青少年赤十字の仕事の一つとしておやりになっていたから、それを担当させてもらって、英語の手紙の書き方も教わったし、在京大使館で話を聞くマナーや手続きのことなども自然に身に付きました。

まだまだ未熟ですが、説得力のある話や感激させるような話の仕方なんていうのは、この「橋本学校」で鍛えられました。
おかげさまで両陛下からも、「私たちのところに来て、あがった様子がないのは黒柳徹子さんと吹浦さんだけです」と言われたこともあります(笑)。
「ハシ先生」は、「人前で話をするのに絶対、書いたものを読んではいけない」という人なのです。
「必要なキーワードをメモしておく程度にして、相手を見て話さなければダメだ」と言われ、鍛えに鍛えられました。
「民主主義は言語による人取りゲームなのよ」と。

「ハシ先生」のご自宅には少なくとも毎月1回集まり、最初に来た人が出題する権利があるんです。
例えば「親孝行」とか、「国際協力」だとか、それを題にして、3分間スピーチをしなきゃいけない。
そのうち、いきなり英語の題が出てきたりするのです。
2回の咳払いまでは許される。
そういうとても厳しい面もある先生でした。

この勉強会は大学が終わってからも続きました。
英語はしどろもどろだったけれども、日本語でだって大変ですよ。
着いていきなりですから。
最初に来てお題を出すのは、たいてい大先輩たちでした。
外交官になっている人とか、外資系企業の部長とか。
そんな中で、オロオロおたおたして、「急に言われても」なんていう後輩には、「もう来なくていい」と言われちゃう。

そこで鍛えられたから、今はどんな場合に急に言われても全然怖くない。
「難民を助ける会」でもそういう勉強会をやっていいと僕は思っています。

捕虜の問題について学ぶ

故郷秋田に百貨店の常務だった工藤清さんという方がいらっしゃいました。
工藤さんはオーストラリアのカウラの収容所に収容されていました。
カウラというのは昭和19年、1944年に大脱走事件が起こり、429名が殺害された収容所です。

その人が戦後、秋田駅に帰ってきて、駅から真っすぐ帰宅しないで、わが家へ来たんです。
うちのおやじに「俺はどうしたもんだべ。このまま家名を汚して帰れるべが」と相談に来たのでした。
そこでウチのおやじのことだから、「よし、分がた」と言って手を引くようにして工藤家に連れて行った。
「捕虜さなったどもご免してやってけれ。何度も死線くぐって、聞けば大脱走事件まで起ごして、何百人もが銃殺されたんだってさ。そえでも清は死なねで帰てきたんだがら。それは神仏が生かしたんだす、清のごと」と家族を説得したのでした。

その話を本人から何度も聞いて、日本人というのはどういうものなのか、人道とは何なのかというのを高校2年生のときに非常に強く感じたのでした。

それからジュネーブ条約をこれまた「ハシ先生」に勧められ、いっぱい勉強し、捕虜体験者へのインタビューもたくさんやりました。

工藤さんは「カウラ会」の副会長でしたが、当時ほとんど寝たきりだった会長さんにもインタビューしました。
機会をいただきましたので、そのことを陛下にお話したところ、陛下がご存知の方で、すぐ庭に出られ、手づから大きな桜の枝を手折られ、侍従と私が奉書紙で下を包み、大井町の会長さんのお宅にお見舞いとしてお届けしたことがあります。
会長さんはやおら床から起き上がり、枝を抱きしめ、ぼろぼろと涙を流されました。それから約3週間の命でした。

充実と波乱の20代

厚生大臣に献血をさせる

大学に入って、すぐ献血運動に入りました。
当時、輸血の血液は売血に99%くらい頼っていたんですね。
献血という言葉もほとんど死語になっていました。

それで、大学の中に献血学生奉仕団をつくって、当時、献血車というのは全国に1つしかなかったんですが、それを何度も早稲田に呼び、中曽根康弘代議士(後の首相)や女優さんなども招いて献血してもらったりたり、他の大学にも車を派遣したりしました。

そのときの西村英一厚生大臣にも仲間4人で会いに行きました。
そうしたら大臣が「おい、64歳までで献血ができなくなるというのなら、俺は今、ちょうど64歳10カ月だから献血する!」というので、いきなり大臣室から青山学院大学に行って献血されました。

後からお役人たちが追っかけて来たのですが、大臣は「俺は今、こうやって献血をしてきたけど、キミたちはやってないのか」と腕を抑えながら献血車から出て来られました(笑)。
われわれが直接、大臣に訴えたことを医務局長などから、こっぴどく叱られましたが、若かったですね、「何するものぞ」と口をへの字にしていました。

病院でもボランティア活動をしました。
当時、病院ストというのがあったんです。
看護婦さんや医者が患者をほっぽりだしてストライキをやって、その待遇改善を訴えた。
特に看護婦さんが中心でした。
日本赤十字中央病院、今の日本赤十字医療センターです。
ストの是非はともかく、これを知ったソー

ン・リースンさんというオランダ大使館の参事官夫人が、「アメリカでグレイ・レディという病院奉仕ボランティアをしていました。みなさんもやりましょう」と「ハシ先生」に提案してきたのです。

「ハシ先生」が素晴らしいのは、そこで考えさせるんですよ。
「素人が病院に行って、何ができるか考えなさい。まず、何科で必要か、どこの科の患者が一番求めているか考えてごらん」というテーマで議論をさせて、それで結局、整形外科病棟に行ったんです。
理由は、1つは、整形外科は概して入院期間が長く、家族もあんまり来なくなってくる。
それから、整形外科で亡くなる人はまずいない。
整形の人はしばしば恋人に手紙も書けない。
そして絶対にボランティアに病気が伝染しない。
それなら、整形外科が一番だといって、早稲田の私のクラスの連中10人ぐらいと、日赤中央女子短大という看護婦さんを養成する3年制短大の学生と組んで活動しました。

その当時の人たちとは今も付き合いがあります。そこに行って、それこそ恋文の代筆までしました。

そこで学んだことがあります。
当時、柏戸と大鵬という2人の横綱がいて、柏鵬時代と言われていました。
私は秋田の出身ですが、隣の山形県出身でもある柏戸のファンだったんですね。
その力強く豪快な取り口が好きだった。
ところが患者の中に熱心な大鵬ファンがいました。
ボランティアたちの間で、「〇番のベッドにいる○○さんは大変な大鵬のファンです」なんていう情報の申し送りがあってね。
そうすると、行くボランティア全員が、「私は大鵬が大好きで」とか言うわけです。
私は「いや、今日、大鵬、負けてくれてほっとしましたよ」とか「柏戸が優勝した」と喜んだりしていました。
でも、その人にとっては、そういう大鵬を必ずしも夢中になって応援していない人がいるからこそ、大鵬の勝利が嬉しいわけですよ。

中曽根さんのカツ丼

1962年に憲法調査会(高柳賢三会長)というのがあって、青少年団体の連合体である中央青少年団体連絡協議会(中青連)からも代表を出さなきゃいけないことになりました。

それで、みんなで憲法について議論をしたところ、本来、政治と無関係な団体である青少年赤十字から来た私が選ばれて、出たんです。

テレビは全国生中継で。
当時、あまり録画技術なんてなかったですから。
そこで35分間も公述して、その後15分間、委員からの質問に答えるんです。
何人かからの質問があって最後に質問したのが中曽根委員でした。

まだ彼が「青年将校」といわれた頃です。
それで、僕に大変不用意な質問をしたんです。
自分が主張している首相公選制について、「首相と恋人は自分で選ぼう」をキャッチフレーズにしながら、「君は青年代表としてこれをどう思うか?」と聞いてきました。必ず賛成すると思っていたようですよ。

ところが、僕はそれについて「反対です」。
反対というのは、当時は自民党と日本社会党が2大政党で、自民党と社会党は全然、基本的な在り方が違うわけです。

しかしながら、仮に超有名人が、その頃でいうと藤原あきだとか石原慎太郎とか力道山とか、そういう人が出れば当選しかねません。
日本のポピュリズムは今も昔も怖いですよ。
すると、行政府と立法府がまるで違う形になりうる。
「憲法や安保についても、自民党と社会党とではまるっきり違うから、こっちの政権が取れば条約を結び、こっちが取れば破棄するというようなことになりかねない。そうなれば日本国の運営が成り立ちません」と言って、それでテレビ中継は終わったんです。

テレビというのは、最後に言った人が勝ちで、結論はこうだという話になってしまいがちですね。

テレビで真っ向から中曽根さんに反対した形でしたが、中曽根さんがやっぱりすごいと思ったのは、終わってからやって来て「君、あしたの昼、空いてるかね?」と言われたんです。
それで次の日の昼、赤坂の事務所に行ったら、忘れもしない、えらく分厚いトンカツが乗ったカツ丼を食べさせてくれ、いろいろ議論させていただくと、「どうだ、君は自分のところの書生にならんか?」と言われました。
それ以来、今日まで大勲位には60年近く、ご指導いただいております。

国交回復直前の韓国へ

大学の学部生時代、学部の国際政治の先生の専門がラテンアメリカだったんです。
でも僕はグローバルな視点からヨーロッパをやりたいと。
そこで大学院は政治学研究科西洋政治史専攻というところに行きました。
そこの先生にほれたんです。
松本馨という教授で、東京帝大を出てから、ケンブリッジ、ソルボンヌ、ハイデルベルグの3つを出たという、すごい先生なんです。

たまたまその時、ドクターコースに、韓国軍で朴正熙大統領(当時)の上官だった崔錫という人がいたから、その人に従って、神戸から船で訪韓しました。

何でもいいから外国を見たかった。
つまり当時は、海外を旅行する自由がほとんどない。
だから何でもいいから行きたかった。そうしたら、崔さんから「来い」。
条約が発効するのが9月で、僕らが行ったのは8月から9月にかけてでした。

その時に『中央日報』が創刊されたんですが、その創刊号でわれわれ6人と韓国の大学院生6人の討論というのをやらされた。

こっちは何の用意もない。
向こうは、早くから知らされていろいろ準備している。
平均年齢もずっと上なんです。
徴兵制で兵役をしているからでしょうね。
しかも優秀な院生を選んできた。
紙面では、こてんぱんにやられた感じの記事になりましたが、ここでも日ごろの勉強と準備の大切さを学びました。

でも、韓国の人たちの中にある「親日」ぶりも随分味わいました。
新羅の古都・慶州にも行きましたが、田舎の寂しい王陵の前のある慶州小学校でピアノで「埴生の宿」を弾いた人がいたんです。

それで、つい音楽は好きなもんだから、のぞきに行ったら、僕の言葉だと「帰化曲」というんだけれども、日本の曲になったような外国にルーツのある有名な、「旅愁」だとか、「ローレライ」とか弾くわけです。
その音楽の先生は、日本の曲はいくら何でも弾いたらまずいと思っていたわけなんでしょうね。
そういう形で、私たちは日本人に好意を持っているよということを示してくれたのです。最後はお互いに泣いた。

そういう経験をいっぱいしてね。
本当に今になってみると、勉強させられた旅でした。
韓国語を学ぶこともこれからは大事だと自覚しました。

大森実国際問題研究所

大学院修士の時、松本先生が新設の東海大学へ移ることになりました。
これは困りました。
そのままずっと上に行こうと思っていましたから。
それで、修士課程の終盤でしたが、中曽根さんに相談に行った。
「君はこれからどうするんだ」と聞かれるので、「迷っているところです」と言ったら、「実は、(国際事件記者として著名な)大森実君が毎日新聞を辞めたんだ。今日、あいさつに来た。いかにも今日のきょうで君には悪いけれども、彼の事務所を少し手伝ってやってくれないか」ということになりました。

大森実というのは、毎日新聞の外信部長で、当時は光り輝いていたジャーナリストだったんですよ。
当時の毎日は、外信部で持っているくらいのトップの新聞だった。
彼は北ベトナムに行って、北爆を非難する記事を書いたら、ライシャワーにプレッシャーを掛けられて、毎日新聞がそれを簡単に跳ね返さないものだから、それなら自分が出ると言って、数人の仲間を引き連れて出て、週刊で新聞をやることにした。
それで「東京オブザーバー」という週刊の新聞をつくった。

そこに「行け」と言われて行ったら、いきなり「明朝8時の飛行機で韓国に行く。付いてこい」というわけです。
でもパスポートもないんですよ。
「そんなもの、俺が何とかする」と顔写真を撮られただけで、6時に羽田に行ったんです。
今もって不思議なんですが、あれはどうやって旅券を準備されたんでしょうね。

さっき言ったように、その前の年に僕は韓国に行っていた。
たったそれだけの理由でおまえを韓国担当にするという。
それ以来、韓国には何度も行きました。
大森さんの紹介で行くと、丁一権首相や実力者である金鍾泌共和党幹事長とか、大物たちに次々に会えました。

大森さんのところで、頭角を現してというとカッコいいですが、研究所の役員になりました。
ところが、1970年3月11日、真夜中に電話がかかってきて、「あした、正午に手形が流れて破産する」と。
経理責任者が2千800万ほどを持ち逃げしたんです。それでどうにもならなくなり、深夜の取締役会になって、わんわん泣いて、これにて解散と相成りました。

激動のインドシナへ

1980年5月カンボジア赤十字にて、救援物資の輸送を調査。左は吹浦さん、右は近衛さん。

東パキスタンで「行方不明」になる

研究所が破産した翌朝、中曽根事務所へまた行ったわけです。
「これこれこうなりました」と言ったら、「ああ、じゃあ、ちょうどいいときだから、来月(1970年4月1日)から拓殖大学に来い」。

要するに、当時、拓大は総長が中曽根さんなんです。
ところが行こうとしたら、前の晩に「よど号事件」が起き、行って最初にやらされたことは、「とにかく1日中テレビを見て、今どうなったかだけ報告せよ」という。
それが最初の仕事だったのを覚えている。

大学は「70年安保」の真っ盛りでしたから、ほとんど閉鎖状態でしたから、こんなことをしていてもしょうがないと思っていました。

そこで(1970年)6月に、ベトナム孤児福祉教育財団の第一回調査団員としてベトナムやカンボジアを回ってきました。
ベトナム孤児福祉教育財団というのは、松田竹千代という衆議院議長が中心になって、国会議員に「給料の50分の1を天引きで寄付せよ」と呼び掛けて創った財団です。
今の難民事業本部の親団体です。

それでベトナムのビエンホアというところで、南ベトナム全土から集めた孤児のヴォケーショナルトレーニング(職業訓練)を始めました。
その翌年(1971年)には、先ごろまで日赤の社長だった、盟友・近衞忠煇外事課長から「おい、ちょっと東パキスタンに行ってくれないかな。3カ月でいいから」と言われました。

中曽根さんにも「そうか、行け行け。学校、やってないんだから、それほどやることはないだろ」と言われたので、着任すると、3カ月目には第3次印パ戦争になって、他の日本人はどんどん帰っていく中で、戦時救護にあたるため、そのまま残っていました。

当時、西パキスタンに東パキスタンは支配されていた形になって、それに対し71年3月26日に東ベンガルが独立宣言をしました。
それから内戦状態になって、12月になってインド軍が入ってきて、結局、その第3次印パ戦争はインドが勝ったという形で終わった。

印パ間での戦闘は実に国際法的には模範的な推移でしたが、東パ・西パのイスラム教徒同士の戦いというのはあんなにもなっちゃうのかなと思うくらい、残酷なものでした。

当時、新聞に「国際赤十字の吹浦忠正さんという人が行方不明」という記事が出ました。
その新聞を見た中曽根さんがえらい心配してくれて。
ジュネーブのICRC(赤十字国際委員会)にすぐ電報を打つなど、何が何でも探せと、関係方面に命じ、そして、自ら書かれた、着くか着かないかも分からない航空便を私に出してくれました。
それは3月か4月になってダッカで受け取れました。

「行方不明」報道には理由がありました。
その頃、ダッカには各国の総領事が13人いました。
日本からは檜垣正忠という人(後の駐ガーナ大使)が赴任していました。
彼には日本の外務省から帰国命令が出て、それでダッカの空港まで行ってタラップを上がったところで、ふと「待てよ」と考えた。
「13人も総領事がいて、帰る総領事は他に誰もいない。日本だけが引き揚げるというのは、これは将来に禍根を残す」と。

そこで彼は決心して、国際赤十字がやっているインターコンチネンタルホテルに駆け込んできて、吹浦に「君、行方不明になってくれ」と。
本来、赤十字は戦時にあって被戦闘員を保護する側なんですが、ニュートラルゾーンに外国人を全部入れて、保護したんです。
その私に「行方不明になってくれ」というのです。
そんな裏話があるのに、まともに、行方不明の記事なったのでした。

九死に一生を得たベトナムとカンボジア

バングラデシュでの活動が終わって帰ったら、「ジュネーブ(国際赤十字本部)の評判が大変良かったので、もう一回行ってくれ」と近衞さんからおだてられ、今度はベトナムに行きました。
1973年1月にパリ和平協定が結ばれて、キッシンジャーとレ・ドク・トにその年のノーベル賞を与えるということになったんですが、実際にはベトナム戦争はそのまま放っといて米軍だけが逃げたわけです。
その時に「日本も安全保障をアメリカに任せているような、べったり型の関係でいいのかいな?」といろいろ考えさせられました。それはともかくとして、アメリカがいなくなるからというので、米軍捕虜の解放とか難民の問題とか、そういうことをするためにベトナムへ行ったんです。

これより少し前、1971年5月ころ、日赤本社の高橋奉仕課長と一緒にカンボジアに行く機会がありました。
士官学校出の少佐だった人で、一個大隊300人の指揮官だった。
軍事が解る人と一緒にいてとても勉強になったし、安全でした。

できたばかりのロン・ノル政権が共産勢力に囲まれ、一時は崩壊寸前だった。
それで力石健次郎大使の公邸にずっと泊めていただきました。
「吹浦君、君はこの菊の紋章を守る覚悟があるか」。
この大使はすごい人で、もう時効ですから話しますが、大使は「公邸の地下には、1丁しかないけれども、機関銃がある。俺はこの機関銃1丁で菊の御紋を守るために戦うが、君はそういうことには慣れていないから、弾を運んだり飯を作ったりしろ」と言うのです。この大使も士官学校出の人。もうその2人が大張り切りで・・・。

すごい時代ですよ。空港までポル・ポト勢力が迫って来ていたんだから。
メコン川はカンボジア人に殺されたベトナム人の死体がどんどん流れてくるんですから。

13日目に、隙があったとき、すぐ飛行機が発つからと連絡が入り、それで離陸できたのだけれど。大変な経験をしました。

こうやって話していると、よくやったなと自分でも思います。
その後、1975年4月30日にサイゴン、今のホーチミンが陥落して大混乱に陥るわけです。
難民の大脱走みたいなことが起こる。
中には、私がベトナムにしばらく駐在した時に知っている人がいっぱいいたんです。
向こうの赤十字(ベトナム共和国赤十字)の社長なんて、私が肝炎になった時、夜の一番危険な時だったにもかかわらず、自ら200キロぐらい車を運転してくれて、日本人医師のところに案内してくれた恩人です。
それで、私は日本に帰ってこられたんだけども、そういう人たちがみんな空港に駆け付けたり、米軍の艦船に行ったりして、苦心して世界に散っていった。

そういうことを見ていて、南ベトナム崩壊となった今、何かしなきゃいけないなと思いました。

1980年5月、吹浦さんが「インドシナ難民を助ける会」を代表してカンボジアへ実情調査にいった時の報道。右端は日本赤十字社の近衛忠輝さん。朝日新聞1980年6月4日

難民を助ける会とともに

「夢見る夢子ちゃん」と「リアリスト」の出会い

帰国後、私は末次一郎という人の事務所で国際関係を処理するお手伝いと、日赤短大(日本赤十字中央女子短期大学)の助教授という2つの仕事をやっていました。

ある時、末次さんから「おい、相馬(雪香)さんが困ってるから行ってやってくれよ。あの人は夢見る夢子ちゃんで、全然リアリティのない人だから、力貸してやろう」と。

41年前のことです。
一番大事なこととして、日本はベトナム、ラオス、カンボジアの人たちについて何をすべきかというところから入ったんですけれども、外務省は猛反対ですね。
「パスポートのない人が日本に来るなんてことは今までもなかったし、これからもあってはならない。それは入国管理というのは重要な国の主権に関わることだ」と。
相馬さんと私に対して、「とにかくこれはおやめください。政府に任せてください」と某局長が必死に言うわけです。
そんなわけで、「日本も相応のことをしなきゃいけない」ということで始めようとしたけども。
丸一年、何もできなかったです。

会ってみると、あきれるくらい世間を知らない〝お嬢さま〟なんですよ。
ただ、発想は素晴らしいです。
しかし、「いいことをやっていれば金は集まるわよ。事務局はなくたって何とかなるわよ」という人だった。
実際、それでは何ともならなくて、それから正式な発足まで丸1年以上かかったかな。

聖心女子大の学長さんだとか早稲田の学長さんとか錚々たる人たちがいっぱい集まって「はあ、それは素晴らしいことです」とみんな賛成してくれるけれども、誰一人、NGOをやった経験もなく、銀行振込と郵便振替の区別も分からないような人たちだったわけです。
それでありながら、「こういうものについては、郵便局が振込料を取らないで協力すべきだ」とか、高邁でご立派な話はしてくれるんです。

そこに現れたのが柳瀬眞さんという人(柳瀬房子会長の父)だったんです。
ずっと国際積善協会を主宰してこられた63歳の方でした。
「困っている人がいれば、もう何でもやれ」というぐらいの人だったけど、同時に、そのためにはどうしたらいいかを全部心得ておられ、物事をリアリスティックに処理できる人だった。

「場所も金もないんだったら自分のところの離れを使っていいよ」と言ってくれた。
そこで目黒区平町の(柳瀬氏の)自宅の離れに、この後9年間もの長きにわたり、AARの事務局があった。
このインタビューシリーズに登場する、原田さん、小松くん、吉田くんなどなど若い人たちが、夜となく昼となくどんどんそこに集まりました。
居候のあつまりのような雰囲気でもありました。

このような紆余曲折の末、ようやく「インドシナ難民を助ける会」が発足し、代表幹事と広報を担当しました。38歳でした。

1979年、設立総会を開くと各紙で紹介されました。
柳瀬先生が「自分の所を使っていいよ」と言ってくれなかったら、もう出発にも至らなかったんですけれども。
でも、その出してきた定款はたった3カ条。
これでは不十分だとその場で僕は手を挙げて改正を提案したりしちゃってね。
はっきりいって組織としてはお粗末な発足でした。
しかし、ひとたびつくっちゃうと、この人、柳瀬眞という人はすごいんです。
半年で、当時の金で1億5千~6千万円集めたんです。
でも、私は知らなかったけれども、非常に体の弱い人だったんですね。
会ができて半年後にはお亡くなりになりました。

朝日新聞、読売新聞などの協力は素晴らしいものがありました。
今ではその記事集だけで数冊になっているくらいです。
現金書留が中心の時代でしたが、その現金書留の封筒が段ボールに入れられて配達されてきた。
「日本人の善意」は見えないところにちゃんとあるんだ、何ともすごいと思ったものでした。

パワフルニュートラリティ

会はボランティアとしてやっていこう、やりたい人がやる体制をつくろうとしました。
それから、政治、宗教に中立という市民団体も珍しかったですし、女性が中心になってこれだけ大きな団体にしていくのも珍しかったと思います。
それから、じゃんじゃん新聞に出るというのも珍しかったでしょうね。

中立というのは私は「パワフルニュートラリティ」ということが大事だと思うんです。
まず、どちらにも与しないということです。
しかし、実際に見ていると、どこかに与してるNGOには非常に金が集まるんです。
各党がそういう決め方をするんです。
しかし私たちは、政党からは一銭も金をもらわないことを原則にしようということにしました。

政治的に中立な団体というのは珍しい存在でした。
相馬先生は右とか左とかというと、多少、左。
つまり自民党べったりではない。
健全な批判精神をお持ちでした。
それから末次一郎という人は愛国者。
多少、右。

ただ、みんな「右翼でもなく左翼でもなく、ナカヨク」という感じでした。
若者はノンポリでした。
ほかにJC(日本青年会議所)の全国会頭とか、聖心女子大、早稲田、上智大学の学長とか、任意団体としては堂々たる顔ぶれでした。

他方、宗教団体については、最初から全ての宗教団体と仲良くしようと。
来るものは拒まず、その代わり、会の中では宗教活動をすることは一切やめましょうということにしました。

相馬先生のご主人が亡くなった時に相馬家が神道でお葬式をやって、私なんかは知らずに仏教の数珠を持っていって、これはまずいというんでポケットにしまい込んだぐらいです。

それから、柳瀬(房子さん)がカトリックだということは知っていましたけれども、私は何教だか分かんないなんていうのが普通の日本人だし。
いろんな宗教の人がいましたよ。
それは創立メンバーを見れば分かりますけれども。

このように、宗教団体からの寄付はいただくが、政党からは金はもらいません。
でも、絶対に政治家と付き合わないかというと、個人としてはいっぱい政治家と付き合っています。
今では、私の弟子と称している政治家もいっぱいいますし、若いころ相馬さんのかばん持ちから社会活動を始めた藤田幸久くんなどはこの6月まで、NGO出身議員として国会に議席を持っていました。
でも、会の中に政治を持ち込まない。

したがって、会の中で、今度の選挙には誰に入れてくれとかという話は一切しません。
宗教の勧誘も一切なしだということで、そこはうまく続いています。

一般的には政治や宗教に中立な団体は、信頼性が高いと見られます。
しかし、いろいろと言われます。
こんな人道的なことをしておられるんですから、きっとあなたは宗教を隠しておられるんじゃないんですかとかね。
それからこの会の活動に反対する人というのも毎回いましてね。

新聞に出ますでしょう?そうすると、日本にだって困っている人はたくさんいるのに、あなたは何でそうやって外国人のことばっかり言うのかと。
新聞に出ると必ず2~3本の電話が来ていました。

そういう人たちには、「ご縁のもので、私たちは他の人がやっていないから外国人で困っている人のお世話をしているんです。あなたは日本で困っている人にどんなことをしておられますか、一緒にやれることがあったら一緒にやりましょう」とかという話をしています。
そうすると、大抵向こうは困ってしまいます。

変な言い方かもしれませんがソーシャルナショナリストみたいな人がいます。

要するに日本と日本人が大好きなんです。
だから、「外国人の人がいくら困ったといって、勝手に日本に来たり、勝手に向こうで戦争をやったり、勝ったり負けたりしているから混乱しているんでしょう?それがいけないんだからほっとくべきだ」とか。

それから、「平和運動をしろ」というのもいっぱいありました。
「そんなことより平和であれば難民なんか出ないんだから平和運動をしましょう」という人が。
これは、私は賛成だけれども、平和、平和といえば平和が来るもんじゃないんだと思います。

例えば、私は、広島で折り紙を送る運動には決して積極的じゃないんです。
この間も行ったら、毎年その処分費用に市の金が10億から12億かかると言っていました。

全国から修学旅行生が来てみんな千羽鶴を持ってくる。
それを通じて学習するのはいいけれども、あまりにワンパターンではないでしょうか。
千羽鶴を1人10羽ぐらい折ると、それでもって自分は平和に貢献したみたいに思うのは……。
その辺のことを『NPO・海外ボランティア入門―難民を助ける会20年の軌跡から』(1999年、自由国民社)に書きました。

平和運動をしろと言うのは空想的平和主義者です。
平和、平和と言えば平和が来ると思っているんです。

少なくとも科学的平和主義者なら、平和構築のためにどうしたらいいのか、どうやって戦争を防ぐのか、どうやって今の平和を維持するのかをもっと考えるわけですが、とにかく平和、平和というと平和が来ると思っているんじゃないかというのは多いです。

私は、あまりみんな空想的平和主義者が多いので『「平和」の歴史―人類はどう築き、どう壊してきたか』(2004年、光文社)という本まで書きました。

差別的な日本社会を変え、難民の子どもの学びを支えるために

難民というものに対する差別というのはものすごく大きかったです。

最初の頃から、「日本に来た難民たちに日本語や日本の社会習慣を教えなきゃならない」ということで、補完教育と言語教育と称してやっていたんですけれども、その時にまあ部屋がどこへ行っても借りられない。
「ええっ?外人?おまけに何?難民?とんでもない。うちの資産価値が下がる」というので散々締め出されて、それで、西新宿の17階建てぐらいのマンションとようやく話がついたんです。
ところが、そこはヤクザがいっぱいいるんです。

この間、久しぶりに、その当時ボランティアをやっていた人が訪ねてきたんですが、「いや、最初行った時は怖かった」「私もエレベータで息を詰めていました」という話になりました。ちっちゃな4人乗りのエレベーターに、おっかないお兄ちゃんが2人ぐらい乗っていたりでした。
そういうところしか借りられなかったんです。

でも、どんどん人が来るから、日本最大の日本語学校をつくったんです。
マンションの3室をフルに使ってやって、それでも足りなかったんですが、ある民社党の区議会議員が五反田に事務所があってそれを自由に使わせてくれることになりました。

それで「太陽塾」と称して、太陽塾新宿本校と五反田分校をつくってやってきました。
それを通して日本人の意識を変えていったという思いがあります。

難民を助ける会の今の長 有紀枝理事長(立教大学副総長)はその時のボランティア教師の一人でした。

みんな難民を人ごとだと思っていました。
だから、相馬先生や柳瀬(房子さん)たちとあの時代に一致したのは、ベトナム、ラオス、カンボジアの人たちに対して差別させないようにしようということです。
日本人は長年、中国人、朝鮮人、ロシア人を「ちゃんころ」「ヨボ」「ロスケ」などと差別的に呼んできましたが、そういう接し方しかしていない。

彼らがある程度まとまってくるのは、常に困りはてて食うに食わずにやって来るときでしょう?
だから尊敬する対象と見なされていなかったんでしょうか。
実際には、ロシアからの難民から日本人が学んだ部分はいっぱいありますけれども(詳細は吹浦忠正著『難民世界と日本』日本教育新聞社)。

だから、日本軍による捕虜虐待なんていうのもその辺に背景があるんですよね。
それに対して、新たにベトナム、ラオス、カンボジアから難民が来た時に、またここで差別はしたくないと。
だから、何とか彼らの助けになりたいと思いました。

その一つとして、日本は高学歴社会であり、高度に発展した技術社会であるから、彼らを学校に入れて、技術を身に付けさせようじゃないかというので、奨学金制度を始めたわけです。

そしたら「どうしても自分は医者になりたい」という、ベトナムからの〝ボートピープル〟だった女の子がいたんです。
トラン・ゴク・ランさんです。
最近も会いましたが、その子の話を聞いた瞬間、私が「おお、それは面白い!」と言ったと、彼女のほうが覚えているのです。
彼女はそこで、「挑戦」を決心したのだそうです。
結局、桐生女子高校に入って、入学した時はビリ、高校を出る時はトップで、聖マリアンナ医科大学へ行って、開学以来の優秀な成績で卒業しました。
それで一遍で医師国家試験に受かって医者になりました。
今度の難民を助ける会40周年記念〝卒業生〟の集いにも、滋賀県から参加すると返事が来ています。

その時にも批判する人がいました。
「私立の医学部に行くのにいくら金がかかる?1年に2千万はかかるぞ」と。
私は、「しかし、世論の大半は支えてくれていますよ」と言いました。
実際に、彼女のためにそれこそ2億円近い金が集まったんですよ。
それがテレビ番組でドラマ化されたり、本が出たりしました。
大学やロータリークラブなおも支援してくれました。
彼女のおかげで何十人もが進学できたんです。

そのうち、会が大きくなって90年ぐらいになると急に予算規模が膨れてきたんです。
そこで、寄付を無税の扱いにしなきゃ限界があるということで、社会福祉法人を分離してつくろうということになりました。
それで「さぽうと21」という団体をつくって、相馬理事長、私が理事、柳瀬が事務局長という体制ではじめました。
AARの奨学金をずっとつないできて、これまでに全部合わせて3千200人ぐらい応援してるんじゃないかな。

さぽうと21支援生報告会(2013年12月JICA地球ひろばにて)

さぽうと21支援生夏合宿(2014年8月国立オリンピック記念青少年センターにて)

2年前からpp奨学金というのを始めたんです。
これは、パチンコ・パチスロ奨学金。
ppは小文字です。ピアニッシモという気分です。

私は、パチンコの悪口をしこたまテレビや新聞に書いたりしていた時期があるんですよ。
そうしたら、ある日、立教を出た敬虔なクリスチャンが、「中に入って一緒に改革してくれませんか」と言いに来たんです。
批判ばかりではいけないというので、社団法人日本遊技関連事業協会の業界外理事になりました。
もう15年以上になります。

この間に、パチンコの不正を防止したり、暴力団が入りにくくしたり、トイレをきれいにしたり、分煙にしたり、軍艦マーチをやめたり、業界は大改革しました。
その人たちと付き合っていて判ったことは、皆さん、創業者はみんな「地を這うような」というか「血を吐くような」努力をしてこられ、自分の息子、娘とにかく一流の教育を与えなきゃいけないと。
だから、理事には東大、一橋、早稲田、慶應、北大、京大、阪大なんていう人がいっぱいいるわけです。
留学経験者もたくさんいます。
小さい時から塾に行かせるなど教育投資をしたんでしょうね。

彼らは小さい時から日本人である人もそうでない人も、学校で徹底的に差別されてきた。
教室でも、前にみんな座っているけれども、一人だけ後ろに椅子を置かれて座らされたという人もいました。
したがって、全国のパチンコ屋さんで自分の名前を付けたホールというのはまずない。

10億出してくれたら、私はいつでも「吹浦教授のパチンコ店」を開いてみせると言っているんだけれどね。
つまりみんな、何とかコーポレーション、何とか興業、それから何とか商事や何たら観光、そういう何をやっている会社が判らない名前ばかり付けています。
だから今度の奨学金は、堂々とパチンコ・パチスロ奨学金と名乗ってやっているんです。
パチンコで勝った人が一握りの玉を、募金箱ではなくて、募玉箱に入れてくれるようにする。
そういうシステムで全国展開を今やっていて、これはそう遠くないうちに公益法人にして分離しますけれどもね。
あの人たちの中には、どう社会貢献したらいいか分からない善意の経営者が大勢いるのですが、これで堂々と会社の仕事として貢献できるようになる。
だから、パチンコと名前が付く唯一の公益法人をつくる意義を僕は大いに感じている。そんなことをずっとやってきました。

対人地雷撤廃の運動に取り組む

「インドシナ難民を助ける会」から「難民を助ける会」に名前が変わったのは、1984年11月24日、創立5周年の会を、日本青年館の国際ホールでやった時でした。

私がモデレーターで、当時上智大学教授だった緒方貞子さん、慶應義塾大学の神谷不二教授、そして、朝日新聞で最後までサイゴン支局長をやっていた井川一久さんの3人がパネリストになって、今後どうすべきかということを、300人ぐらいの会員の前で議論しました。

その時に、「みなさん、きょうをもって『インドシナ難民を助ける会』は『難民を助ける会』に変わります」となったのです。その1984年は「アフリカの年」といわれる、いわゆるStarvation in Africaが起こった時でもあったので、レフュジーズ(難民)ばかりではなくて、いわゆる国際法的に難民ステータスがあるなしに関わらず、いろいろな困った人、困難な人を全て対象にしようということになったのです。

この後、様々な人道的な問題に取り組んでいくことになりますが、特に対人地雷撤廃の運動は大きなものとなりました。

対人地雷について取り組んだのは94年から99年ごろ。
94年にカンボジア和平に関する「パリ協定」ができたのに、タイ国境に避難していた人たちが帰宅途中や家の前で地雷にあって亡くなったり、大怪我をする、これは悲劇です。

そこで地雷廃絶をどう訴えて行くべきか議論しているとき、柳瀬事務局長がいきなり『地雷ではなく花をください』という打ち出しで絵本を作ろうと言い出したんです。
それで出版社をどうしようというから、自由国民社に話を持っていきました。私は国旗のことで、当時も今も『現代用語の基礎知識』の最長不倒著者でしたから、そこに話をしたら、「いや、そうですね、先生の頼みではやらないというわけにはいけませんね。3千部で」と言われました。
私が「3千部では一つの運動にならない。何とか7千~8千に」と頼んでいたところに柳瀬が来て、「初版2万部からやってください。売れなかったら全部引き取ります。全国背負って歩いてでも売って見せます」と。
私はもうこれは車を手放すかマンションを売ろうかと思ったほど、この第2の「夢子ちゃん」に驚きました。

それが何と1カ月そこそこで2万部売れちゃったわけですよ。その時以来、私の敷かれっぱなし」は続いています。

政治家たち、防衛庁とは随分議論しました。ある日、防衛庁が裏で、地雷廃止に反対して回っているということが分かったんです。
自民党関係の防衛部会とか外交部会の議員たちのところを、防衛庁の参事官クラスが、「こういう動きがありますが。あれは間違えています」と政治家たちのところを個別に説得して歩いていたわけです。
「日本はこんなに海岸線が広いのに、自衛隊員が十分定員を満たせないほど困っているのですから、地雷ほど便利なものはありません。地雷だったら仮に北朝鮮軍が上陸したら、その周りをぐるっと地雷で取り囲んでしまえば彼らは動けないわけです。それを上からたたくんです」なんてね。

じゃあ、それに対抗しましょうというんで、私が率先して議員を回りだしたんです。
それは当時、外交とか安全保障の議員の多くと僕は親しいものですから。

ある時に、椎名素夫さんという当時、自民党で一番弁がたち、安全保障や外交にも詳しい人に会いに行ったら、「今、防衛庁の人が帰ったところだ」と、秘書がエレベーターまで追い掛けていって防衛庁の参事官を連れ戻してきたんですよ。
椎名さんは、「さっきあなたが言った話をもう一度、吹浦さんの前でしてみろ」と催促しました。
でも、きのうきょう参事官になった人と私が勝負したら絶対に私が勝つ自信がありました。
「海岸線が長いから地雷が必要だと?陸上国境が長いから地雷武装が必要というのならまだ分かる。でも海岸線がある以上、彼らが来るには海を超えてこなきゃならない。それだったら海上自衛隊、航空自衛隊を強化するほうが大事だ」と。
聞いてる方はなるほどと思うわけね。あと、「女、子どもを使って軍事に口を出すことはけしからん」みたいなことをある国会議員に言っていたらしいのです。
だから私は「女、子どもとは、あなたそれは本気に言っているんですか?
そう言って回っているということを発表しますよ」と〝脅迫〟しちゃった。
「みんなに平等の一票があるんだから」という話をして。

そのようにして、一つ一つつぶしていったわけですよ。
それよりも「地雷を配置しないということを今、日本が先頭に立ってやることによる国際的な信頼を構築することが重要だ」という議論をやった。

そしたら椎名さんが動いてくれた。
ああいう時、政治家の正義感は燃えますよ。
その参事官がどういう所を回ったか聞いて、「じゃあその連中は俺が口説く」と。
それで、自民党も動いてくれたしね。
外務省でも、「最初は絶対反対だったな」という柳井俊二外務事務次官(後の駐米大使)が1人で2千冊売ってくれましたよ。
面白いのは、外務省が使っているレストランや飲み屋があるじゃないですか。
それに全部、次官ご自身が回って、何冊かずつそこへ積んでくるわけです。
外務省の売店でも売り出したし、それから霞会という外務省の親睦団体でも売ってくれた。
その結果、2019年9月末で62万3500部になったんです。
9カ国語ぐらいになっているはずです。柳瀬が版権をAARに渡していますし、外国語版は著作権云々を放棄したので、各国に広まったようです。

つまり、場合によっては政治と戦うし、政治家の力も利用する。
メディアだってそうです。
新人の記者がいっぱいいるわけです。
その問題を何も知らないような人です。
だから文章は個別に「です」調で書いておいて、「である」調にすればそのまま記事になるような資料を差し上げます。
次の日の朝刊を見たら、参った、本当にそうしている。
AARのバックに応援団がいろいろできました。

NPO法人誕生の隠れた立役者

NPO法人の設立にも関りました。
当時はNGOともっぱら言っていました。
でもNGOというのはnon governmental organizationですから、反政府運動だと思っている人がたくさんいました。
「何でそんなものをつくるの?財団法人とか社団法人とか、それでいいでしょう?何で改めて反政府運動をやるんですか?」と、議員の名前は言いたくないけれども、そういう人がいっぱいいました。
これにはもうあきれたというほかない。
だから、アメリカの例を国会図書館に議員名を使って調べさせたりして、NPOはそうではないんだということを説明しました。

実際、そういう話をしに参議院や自民党の政務調査会が開く朝食会にも呼ばれました。
終わってトイレに入ったら某有名代議士が「何だ、きょうは。あんな反政府団体のやつを10人も呼ぶというのは何事だ」といって党の職員にどなっているのを聴きました。
僕が大のほうに入っていたら小をやっていたんです。
そこで私が出て、顔見知りでしたので「私がやっているんですよ。反自民党運動をすると思いますか?口を慎んでください」と言ったら、「へっ?先生が何で宗旨替えしたんですか」と言うから「私は自民党べったりなんかではないですよ。正しいことべったりなんですよ」と大笑いした。

powerful neutralityの発言力を付けなくてはと思いました。

自民党議員は、NPOが革新政党を支持する団体のように見ていてそしてnon profitの「プロフィット」が、やはり彼らは解らない。
「利益が上がらなくてどうするんだ?」と。

その時に、法人格を持っていることが社会的にどれだけ重要かということを説きました。
法人格がなければ責任がはっきりしないから金を出さないというのが世間の常識です。
市町村や国の助成金や委託金もそうです。
法人格がない団体は、極端に言えば「使っちゃった、解散しました」で済みますからね。

そういう意味で、NPO法をつくる大切さについて、山本正さん(日本国際交流センター理事長)なんかとはよく意見交換し、一緒に国会議員に働きかけました。

AARはずっと任意団体で、NPO法ができて初めてNPO法人になって、それから4年ぐらいたって、一段階上の認定NPO法人になりました。税金が控除されますから、どうぞ、いくらでも寄付してください。

認定NPO法人は毎年毎年大変です。
この会に来れば、直接、海外の救援現場(フィールド)に行けると思って、若者たちが来るわけですよ。
しかし、実際、NPOで「出世」するには、いかに申請書を作って、報告書を作るか。
よくも悪くも、それがうまい人しか出世できないんですよ(笑)。
「夢」と「現実」の違いですね。
でも随分、それこそ自民党に働き掛けて、認定を取りやすくしました。
でも、認定を取りやすくしたのはいいけれども、取ったら最後、今度は報告が大変だと。
世の中、そういう意味では、過度ともいえるビューロクラシーと「悪平等」が社会にはびこっています。「よき不平等」こそ理想なんですがね。

今、伝えたいこと

たくさんの出会いに育まれて

何も知らないで取材に来る若い記者もいましたが、その頃に付き合っていた人はその後、みんなトップクラスになっていった。
今のある全国紙のトップになった人とはもう40年近い付き合いです。こちらは単純に歳をとっていくだけだけれども、あっちは出世しますから、嬉しいです。

人を育てると大きくなって返ってくるなんて、そんな嬉しいことはない。
私自身がいい師匠にいっぱい会っていますから。

橋本先生、末次先生、大森先生。
それから小学校、中学校でもいい先生に会いました。

そういう人たちからほんとに大きな影響を受けています。
でも、今の人たちは、あんまり深く、長く、真剣に交わるということをしないんじゃないのかな?

やっぱり「一宿一飯の義理」というのは日本文化です。
この間、外交史料館に調べものに行ったら、外務省関係者の紹介者の名前を書かなきゃいけないわけ。
「何人書いたらいいですか」と言ったら、「何人でもいい」と言うから、3人の名前と「その他多数数十人」と書いてきた(笑)。

でも今は、みんな、コンピューター相手にしか仕事をしていないという感じ。
コンピューターに頼っているだけでは、決して人を成長させないですよ。
how to useということはあるけれども、どうやって成長すべきかということは、コンピューターは考えてくれない。
私については、「おまえ、どうやって飯を食っているんだ」とか、みんな心配してくれるけれども、私の人生は長いこと人さまが応援してくれているんです。
全く変な話ですけれども、生活を支えてくれるスポンサーがいるんですよ。
それから、「何かしたかったら金を出すよ」という人もいます。ありがたいことです。

NGOは「ゲリラ」「馬賊」でいい

困ったことがある場合でも、AARは開発途上国でも賄賂を使ったりはしません。
今もある国でNGO登録ができなくて困っていて、それでその担当の若い人が「何とかしてくれ」と言ってきたので、今の日本○○協会の会長をやっている前○○大使にお話をしに、AARの二人のスタッフを同伴して話を進めています。

つまり何というか、今の若い人は、ある意味であまりに四角四面というか、正面から行くことしか知らないところがあるけど、これがやはり僕は間違いだと思う。
NGOというのはもっとゲリラであって、馬賊でいいと思う。
昔のNGOのトップが集まる会議は「馬賊会議」という感じでした。
それはいい言い方だと、ヒューメイン(humane:思いやりのある)やヒューミント(humint:人間を媒体とする要素)を大事にするというかな。

そういうことはいっぱいありますよ。
ある時バングラデシュに海外青年協力隊を入れることもやったんですけれども、バングラ側に、インド同様、断られる動きがあったのです。
そこで、「私が担当大臣に会うから、君(JICAの駐在員)はアポを取る時に、日本のオピニオンリーダーとか、発言力のある大物が来るとでも言っといてくれる(笑)?」と芝居を打ったわけですよ。
行ってみたら、その大臣、海外援助受入担当大臣はかつてバングラの難民キャンプにいた男で、私の英語の愛称である「タディ!」といって向こうから抱きついてきました。
もう即決で、すぐ協力隊を入れることができました。

そのように、今の若い人たちも、人脈をもっとつくって、維持して、発展させるという、この3つをやらない限り行き詰まりますよ。
正面からばかり行っても駄目です。
そういう感覚をもっと大事にしなきゃいけない。
つまり援助とか何とかといったって、正論ばかり言っていてもしようがないところがあるということです。

悪平等より「良き不平等」

阪神淡路大震災から2日目の時に、いきなり私に経済界のある人から電話がかかってきました。

彼が、夜の10時26分にテレビ朝日のニュースステーションを見ていたら、親子3人で一つの弁当を食べていた。
それがその日初めての食事。
「この人たちに弁当を食べさせてくれる人はいないのか?」ということで、それは赤十字だろうと思って、日本赤十字社に電話したそうです。そしたら守衛さんが出て、「あなた、今、何時だと思ってますか?わが社は9時15分から5時15分までです」と電話を切られたので、大変ショックを受けた。
この話は「天声人語」でも出ましたから、お名前を明かします。CSKの大川功さんという社長・会長さんです。
そしてこの人から、「5億でも10億でもあげたいけれども、弁当をあげることはできないか?」とおっしゃるのです。

震災から2日後ですから、まだ神戸ではあちこち燃えているんですよ。
でも、こっちは震災直後から、かつて神戸に住んでいたというスタッフとその母を車で送り出していた。
資金はそのうち何とかなるだろうということで送っていました。
だからその話があったときに、「じゃあ10億ください」といって10億もらいました。

それでいろんな活動をしました。
そしてその時に、僕は自分の出身母体であり、本籍地のような赤十字というものが恥ずかしくなりました。
そもそも私は高校時代から出身が赤十字なわけでしょう?
守衛さんのそういう対応にもびっくりしたけれども、結局、日本赤十字社が初めてお金を使ったのは、震災の後、やっと11カ月目になってからのことでした。

詳しくは『NGO海外ボランティア入門』(自由国民社)に書きました。
日赤側からは「その通り」という反応が即刻5人からと、「改善に取り組んでいるのに冷たい」との苦情が幹部の秘書から15カ月ほどしてから1回ありました。

私の一つの考え方は「良き不平等」なんです。
それに対して、赤十字は悪平等でもって、「完璧な名簿を作らなくてはならない」とかいうわけです。
「じゃあ、その間に死ぬ人はどうするんだ。それは死ねというのと同じですよ」。とにかく名簿をそろえて、「平等に公平に」ばかりをやる。

私は少々違っていたっていいという考えです。
今でも思い出すんですが、ある避難所に160個弁当を持っていったのです。
そうしたら、「ここには200人いるから、受け取れない」と代表者が言うのです。
「けんかになっちゃうから」と。
私は日本人というのはこんなに退化したのかと思いました。
受け取れないというと、「じゃあこれはどうすればいいの?捨ててきましょうか?」と、そういう話になっちゃうじゃない?
「何とか皆さん分け合ってくださいよ。最後はくじ引きだっていいではないですか」と。それで置いてきました。

忖度を介さず人と向き合う

結局、大川さんには4億8千万を返したんですよ。
そうしたら「君は俺から一番金をふんだくっていったけれども、今までのやつは10円たりとも返したやつがいない。それから第一報告に来たやつもいない」と。

そして、「この難民を助ける会というのはすごいぞ」とおっしゃってくれたので、いろいろとやらせてもらいました。
大川さんは、「この4億8千万は君のために取っておくんだからいつでも取りに来い」と言ってくれました。
けれども、震災が終わって3年ぐらいで亡くなられ、会社内が大荒れに荒れて大変なことになっちゃいました。

結局、それでその後は一銭ももらえなかったということをある場所で話をしたら、セガサミーの会長の里見治さんが「それは大変だ。今、取りあえずこれ」といって、小切手を出し、その場で1千万くれたんです。
大川さんが死んでからセガは事実上サミーに買収されていました。
里見さんは、「私も大川さんに昔、きょうで死ぬかと思うくらいの目に遭った時に背中を押してもらったんだよ」と。

その後、彼は震災があった時に、石巻市に行ったんです。
その里見さんから電話が来て「今、石巻の○○という所にいるんだけれども、難民を助ける会というのは、あれは吹浦さん、あなたのやっているあの会じゃないか?」と。
そして、その後、ぽんぽんと2回1千万円ずつくれました。

どのNPOもNGOも普段、「遊び」に行くことが大事なんです。
遊びに行くという言葉はおかしいけれども、そのくらい、幅広い人間性を持っていれば、どこかご縁や引っ掛かりがありますよ。

里見さんに決定的に私が気に入られたのは、彼の別荘に遊びに行った時に、巨人-阪神戦をテレビでやって、彼はそれをゆったりとしたソファに座って観ていました。
そしたら、掛布のホームランでジャイアンツが逆転された。
そうしたら彼は「何だ、この野郎!」と言ったんですよ。
でも、私はその瞬間、逆に「やったぁ」と手を叩いていました。
そうしたら里見さんも大物だと思ったのは、「今まで俺の所に来るやつはみんな俺にゴマすりに来た。
君のように正直なやつはいない」と。「アンチジャイアンツがいるから俺はジャイアンツの応援に熱心になるんだと。世の中全員ジャイアンツのファンだったらばかばかしくてやっていられないよ」と言うのです。

私はアンチジャイアンツ。徹底している。
選手はあんなにちやほやされて、とにかく金に任せて相手チームの4番バッターやエースを引っこ抜いているでしょう?そんなのを応援できるかと。

現在・過去・未来

難民に対する差別でいうと、30年前よりは改善されたけれども、それは100点満点で10点しか取れなかった人が、30点取れる程度で、やっぱり60点にはなっていないと感じます。

やはり相馬先生みたいな「夢見る夢子ちゃん」が必要なんです。
「夢見る夢子ちゃん」とリアリストと、両方が必要なんだな。

新渡戸稲造なんかは、古来日本に連綿とつながる善意の伝統があって、日本が最初の国際人道法であるジュネーブ条約をこんなにもすんなり引き受けられたのは、そのためだと『BUSHIDO』に書いてあるわけです。
しかし、それはあくまでもfor Japanese peopleで。

亡命してくる人は大事にする。
亡命者はです。
難民というものは、同じ法律的なステータスであるけれども、難民となるとこれは迷惑を掛けると見なされる。

今、僕が書いているのは、私は難民だったという本です。
『「難民」?世界と日本』(日本教育新聞社)という本を1981年に書いて、その最後のページに300人ぐらいずらっと政治家じゃない有名な難民の表を付けたんです。
それが非常に評判が良くて、それをもう少し詳しく書いて独立させる。
だって、イエス・キリストは生まれながらにして難民だったし、アインシュタインだって難民だったわけですから。
それを今、その人のプロフィールとその人が遺した言葉と写真を入れて本をつくろうと思って書き始めて。
30人ぐらい書いたかな。

今はシリアでの戦争で多くの難民がいますが、シリアだけではありません。
日本周辺の国々は将来、どんな混乱に遭遇するかわからないのです。

僕らの世代はめちゃくちゃ得した世代だと思う。
というのは、私は4歳にして戦争が終わった。
はっきり言って、何の記憶もない。戦争を知らない子どもたちの1期生なんです。
戦争を知らないことの劣等感をずっと味わってきた。
きょうだいのうち、3人は従軍している。
それで戦後だって、歌う歌はみんな軍歌の時代です。
そうやって育ってきた自分としては、「戦争を知らないことの幸せ」をずっと感じてきた。

それから、常に経済が右上がりだった。
それは20年間どうだったとか、停滞したとか、何とかはあるけれども、基本的にこんなに発展した。
おそらく、石油という燃料をこれほど自由に使えた世代はわれわれしかいないと思う。
僕らの前の世代は、せいぜい石油を使えたのはランプ。
自動車もあったけれども、非常に少ないでしょう。
それなのに今は、ペットボトルの水よりも石油のほうがずうっと安いんだから。

でも、前にブルネイに行ったときに、中学校で「君たちが大人になったときには1滴の石油もない」と黒板の上に書いてあるわけ。
これはすごい教育だと思いました。
だから、今のうちにブルネイは、工業化しなければやっていけなくなると。
大したもんだと思った。

それが日本は、自分の時代に石油があれば、30年後も平気だと思ってる。われわれは今、使っているじゃないか。電気をつけっぱなしにしているじゃない?
それを思うと恵まれた世代だなと思う。

ならば、その恵まれた世代の務めとして、グローバルに恵まれない人たちに何かすべきだという、そういう基本を私は持っているつもりでいます。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は仁平典宏。

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  9. テロリストの危険から逃れペルーから来日。大城(比嘉)スサーナ【支援生】

  10. NHKラジオ制作で「難民を助ける会」を応援 西村大介【メディア】

  11. イランから難民として来日。父は23年間続けた仕事を40、50代になってすべて捨て祖国を離れる決心をした。【支援生】

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