「愛のポシェット」では日通の倉庫で肉体労働、「愛のひざ掛け」ではモチーフをつなぎ10,100枚に。 半田銈子【ボランティア】

倉庫でチェチェン避難民に届ける毛布の整理にあたる半田さん(左)。2000年。

はんだ・けいこ
東京都目黒区に生まれる。小学生の時に終戦。学校を卒業後、一般企業に事務職員として就職。23歳で結婚。娘3人に恵まれる。44歳の時、夫が他界。その後、日商簿記2級の資格を取得し、会計事務所に就職した。姑、両親を見送った後、本好きだったこともあり、学校図書館司書教諭の免許も取得。仕事を定年退職した後、1994年からAARで夜間の事務担当者として勤め、ボランティアとしてもさまざまな活動にたずさわる。2017年、ボランティアの定年に該当したのでいったん「卒業」したが、周囲や事務局に請われて1年延長する。2018年6月、規定によりAARボランティアを辞める。

娘の誘いで、夜間の事務担当者として

もともと和裁が好きで、定年退職した後は、家で和裁の仕事をしていたのですが、結構きつい仕事で、また運動不足にもなるしで、このまま仕事を続けるかどうか考えていたのです。

その頃、娘がAARの太陽塾(難民塾「太陽」)で日本語を教えるボランティアをしており、夜の事務担当者を募集しているという話を持ってきたのです。
自分には外に出て働いた方が向いていると思っていたので、さっそく面接をしていただきました。
1994年の秋、阪神淡路大震災の前の年でした。
それから24年間ボランティアを続けました。

当時、日本語を教えるのが太陽塾、数学や英語などの教科を教えるのは「ゆうあい」と呼ばれており、同じ教室で大勢の生徒さんが勉強していました。
仕事は夕方の5時から9時までで、生徒さんたちの勉強が終わったら、鍵をかけて事務所を閉めるのです。
その頃、AARの事務所は目黒の山手線の外側、ドレメ通りを行った先にありました。
マンションの1階です。

その頃、私は中高年の中途で障害を負った方を手伝う別の団体のボランティアも週2回ぐらいやっていて、昼間は無理でしたので、夜間ならちょうど良かったのです。
夜間の事務担当者は私一人でして、最初は心細いこともありましたが、日が経つにつれて、色々なボランティアの先生方や生徒さんとも親しくなり、教室に行くのがとても楽しくなりました。

夕方の5時になると、生徒さんと、ボランティアの先生方がやってきます。
教える先生と習う生徒さんの組み合わせや勉強する日は、太陽塾と「ゆうあい」を運営する「さぽうと21」のスタッフの方たちが、事前に面接をして決めてあります。

私の仕事は、ボランティアの先生と生徒さんを引き合わせたり、出欠を確認したり、その日の勉強がスムーズに進むようにサポートをすることです。

毎日、複数の先生や生徒さんがやってきます。
教材のコピーを取ったり、先生や生徒さんに交通費を渡したりするのも私の仕事です。
補助が必要な生徒さんには交通費が出ました。
出席簿に丸を付けてあって、私が計算して月末に渡すのです。
それと教科書を買ってあげるとか。
先生が買ってきてくださるので、それも清算してお支払いしました。

ちなみに、私も事務職員ということで、その頃は時給をいただいていました。
ですので、厳密な意味ではボランティアとは少し違うかもしれませんが、スピーチコンテストの準備など、時間外にもお手伝いをさせていただく機会が結構ありましたから、やはりボランティアということにもなりますかね。

太陽塾は6年続けましたが、孫が産まれましてね。
出産後、娘が1カ月ぐらいは家におりますでしょう。
娘も初産で、私の助けが必要で、そうなると夜はできない、ということで一度辞めたのです。
その後しばらくして、娘と孫が帰りまして、今度は昼間のボランティアとして復帰しました。

AARに来るまでは ―介護、資格の取得、そして就職

学校を卒業してから普通のお勤めをして、23歳で見合い結婚をしました。
当時としては、ごく普通のことです。
初めは専業主婦でしたが、主人は腎臓が悪くて、私が44歳の時に亡くなりました。

それからです、日商簿記を習いに行きました。
簿記の試験を受け、2級に合格しました。
その後、就職した会計事務所では、パソコンに伝票を打ち込むとか、お茶くみなどの雑用もしました。

簿記のほかにも、学校図書館司書教諭の免許を取りました。
本を読むのが好きでしたし、何かの役に立つかもしれないと、玉川大学の通信教育で。
通信ですが、4月から7月までの間は、月水金の6時から9時まで夜間スクーリングの授業もありまして、若い方に交じって、新しいことを勉強するのは本当に楽しかったです。
とはいっても、通信教育は姑と両親がみんな他界してからですね。
存命中は、姑や両親のために、あっちの病院、こっちの病院と付き添いますから、それが終わらないと何も計画できませんでした。

送られてきた全国の皆さんの善意を整えて現地へ送る仕事

太陽塾の仕事以外にもAARでボランティアもいたしました。
90年代を通じて、ポシェットにプレゼントを詰めて世界各地の子どもたちに贈る「愛のポシェット運動」をやっていて、品川の日通(日本通運)の倉庫には、全国からポシェットのための荷物がたくさん届いていました。

私は、ほかのボランティアの方と一緒に、倉庫での荷物の整理をしました。
とにかく、沢山の荷物がそこの倉庫に集まっていて、なかには送れない物もあったりしますので、荷物を全部開けて中身を点検しないといけません。
例えば、Tシャツでも、プリントされたイラストが、ピストルの絵とか、子どもにはこんなデザインは送れないとかありますよね。
古びたものや汚れた品があったら、それも取り除きます。

JR品川駅からバスに乗って倉庫に向かうんですが、倉庫がある場所は昼間でも人気がなく、とても寂しいんです。
おまけに、日通の倉庫って、働いている方は男性ばかりでしょう。
今は女性の事務員さんも結構いますが、その頃は女性が少なくて、当然、女性用のトイレも少なく、おまけに場所も遠いところにあって、ちょっと困りましたね。

今なら自販機もコンビニもあるけれど、当時は何もなかったので、倉庫の仕事の時は毎回、お弁当を持っていきました。
セーターとか毛布とかの仕分けの仕事では、倉庫内のほこりがすごくてね。
仕事としては、良さそうなセーターや毛布を選び、何枚ずつか箱に詰めるとか、肉体労働が多かったです。
私だけでなく、夏は暑くて、大変でした。

ポシェットの仕事で倉庫に行くことが多かったですが、その他にも倉庫での仕事はありました。
今はもう、そういう仕事があったことを知っているスタッフは、7、8人しかいないと思いますが。

「愛のひざ掛け運動」で集めたモチーフをつなげる仕事もありました。
AARに送られてくる毛糸のモチーフが、色々なサイズでして、四角ならまだ良いのですが、丸いのとか、三角とか五角形だとか、実に様々な形のモチーフが送られてきました。
それらをつなげて、ボランティアが一枚の「ひざかけ」に仕上げるのです。
しっかりした、大きな「ひざかけ」です。

四角は楽ですが、丸や三角、五角形だと互いをつなげる時に、あいだに穴ができるじゃないですか。
その穴のところをかぎ針で編んで埋めなければなりません。

作業はAARの事務所で行いました。
私は家政科が専攻なので、和裁も洋裁も大好きですし、ボランティア同士、おしゃべりをしながらでも作業はできるんですけど、細かい目を編み込んでいくのは結構大変でしたよ。
なかには、一枚の「ひざかけ」をご自身で仕上げて送ってくれる方もいらして、助かりました。

「愛のひざかけ運動」でモチーフをつなぐ。左が半田さん。

ほかに当時毎年開かれていた「じゃがいもの会」のチャリティコンサートの手伝いもしましたね。
ボランティアが協力し合い、窓口でのチケット販売や、AARの広報やグッズの販売をしました。

今は、コンサートの準備や運営はスタッフが全部やるので、ボランティアが手伝うことはありませんが、当時はスタッフが少なかったですから、ボランティアが中心になってお手伝いをしました。
会場のお客様の相手とか、領収書を発行したりしましたね。

研修やイベントへの参加も

阪神淡路大震災の後、2泊3日で、信州の四阿(あずまや)高原で、相馬雪香先生(「インドシナ難民を助ける会」創設者。
AAR前会長)もいらして、研修旅行がありました。
研修は相馬先生のスピーチに始まり、日頃の活動を報告する人が何人かいらして、終わった後の夜は、皆でカラオケをしたりしましたね。
最終日は、バスで小布施に出て観光し、長野から新幹線で戻りました。

1998年に開催された長野オリンピックでは、AARはオリンピック組織委員会や新聞社などと協力して、対人地雷撤去のためのさまざまなイベントを開催しました。

クリス・ムーンさんと谷川真理さんが走る「チャリティ・ラン」の時は、AARが主催者なので、外部から事務所に問い合わせがあるかもしれないということで、電話番をしてほしいと言われて、私を含め数名で、一晩中、電話番をしました。

クリス・ムーンさんたち一行がランニングをして、東京に着くのはもう朝です。
それから大使館を回って、支援を訴えるわけです。
結局、電話は全然かかってこなかったのですが、別のボランティア仲間がAARの近くに住んでいて、始発電車が通ったらすぐに来てくれて、「代わりますから、もう帰って寝てください。」って言ってくれました。
夜通し起きていましたが、お弁当だのお菓子だのって、たくさん差し入れがあって、楽しかったですよ。

1997年10月25日、銀座で実施した「対人地雷撤去キャンペーン着ぐるみ行進」にて。半田さん(左)たちボランティアは赤のAARジャケットを着て絵本『地雷ではなく 花をください』を販売

単純なようで緻密さと精度が求められる事務仕事

ここ数年は、ほとんど事務所内での仕事が中心でした。
毎月1回発行されるAARニュースを支援者に発送したり、夏募金や冬募金を郵便で募ったり、寄付された切手や書き損じのハガキの整理などもしました。
切手は金額ごとに紙に貼って整理し、ハガキは100枚ずつ束ねて、まとまったら郵便局に持っていってもらいます。

夏募金や冬募金の発送には、神経を使いますね。
何万通もありますから、まずは段取りが大切です。
個々の封筒には、AARの活動報告やサニーちゃんグッズのチラシなど5、6種類の文書が入ります。
中に入れる文書のセットが用意できたら、送り先の郵便番号ごとに並べ、封筒に入れていきます。
ここからは、流れ作業ですね。
宛先が封筒の小窓から見えるように、一つ一つ入れていき、間違いのないことを確認したら、最後に封をします。

単純な作業ですが、だからこそ、気を抜くと入れ間違いをしたりしますので、注意しないといけません。
受け取った方にも失礼になりますし、やり直すのは大変な手間ですよ。

忘れられない人々、出来事

始めのころはボランティアの数が少なかったから、ボランティア同士で仲良くなって、あちこち遊びに行ったりしました。
例えば、鎌倉の葉祥明さんの美術館に行ったり、秩父の宝登山のろう梅を見に行ったりとかね。
それに、行った先で必ず一緒に食事をしますから、当然、仲よくなりますよね。
ボランティア同士、人数が少ないこともあって、絆というか、まとまりましたね。

今でもお付き合いがあって、去年も仲間の一人の7回忌だったので、故人を知っている仲間が10人ぐらい集まって法要をしました。
故人を偲びながら、みんなで食事して楽しんでいたようなものですけれども。

今もそうやって昔の仲間たちと付き合いがあります。
一緒の食事は楽しいですよね。おしゃべりをしてね。
だんだん、みんな年を取りますし、会えるときに会わないとねと思っています。

太陽塾の頃の話ですが、ある生徒さん(男性)は、解体業とかやっていて、終わる時間が遅くなることもありました。
そういう時は、先生に連絡も来なくて、困りました。
その頃は携帯電話もありませんでしたし、遅れるという連絡も来ないから、待っている先生も少しイライラされる。
先生にすればね、せっかく来て待っているわけですから、怒るのも無理はありません。
でも、生徒さんの側にも事情があり、まあ、仕方がありませんよね。
公衆電話がそばになければ、電話をかけられないわけですから。
あちらも一生懸命に連絡しようとは思っているのに、思うようにできなくて、後で事情が分かって、本当にかわいそうなんですよ。
日本語も不自由ですから、先生にお詫びの気持ちも十分に伝えられない。

もちろん、楽しい思い出も沢山あります。
生徒さんとは、先生を通じて、パーティーに行ったり、箱根や河口湖に遊びに行ったりとか。
そのほかにも、生徒さんの家に招待されたこともありました。
これも先生から「○○さんの家に呼ばれているので、半田さんも一緒に行きませんか。」と誘われましてね。
私も、その子のことは、太陽塾に勉強に来ているから知っているし、行きましたね、埼玉県の川口の方まで。
お料理を作ってもてなしてくれて、本当に嬉しかったです。

あとは、ベトナム料理のお店で働いている生徒さんがいると、皆でそこに食べに行こうということになってね。
ベトナム料理店には、何度も行きましたね。
とても美味しいんですよ。

太陽塾の生徒さんのなかには、とても気さくで、何でも話してくれた男性もいました。
兵隊から脱走したって言っていたかしら、そういう方もいましたね。
だから、国に帰れないでしょう。
それで、日本で就職して、ベトナムのお母さんに仕送りしてたんですよ。
「500万円、貯まった」ってみんなに自慢していました。
だから、私は心配になって、「それは絶対に言っては駄目」と、「日本人にも言っては駄目よ」と言いましたよ。
お金を貸してくれとか、増やしてあげるとか言われても、絶対に渡しては駄目だからね、と言ったことがあります。
本気で心配しましたよ。食うや食わずで、印刷工場で働いていて、機械に手を挟んだと言って、包帯を巻いて勉強に来ていたこともありましたね。

それから、ベトナムからボートに乗って逃げた一家で、ドイツとフィリピンに分かれた後、日本で再会したという家族がいました。
その家族の兄弟が太陽塾に来ていましたね。
弟は小学5年生だったかな。スピーチコンテストに出て良い成績も取るような子だったけど、今は音信がないです。
その兄弟のことが今も気になっていますね。

ちょうどドイツ語の分かる先生が、ドイツから来た弟を見てくれていました。
放課後、太陽塾に来て日本語を勉強すると、どんどん覚えるんです。
その年の12月のスピーチコンテストに出てくれるかどうか聞いたら、OKしてくれて、そしたらもう原稿なんか読まないんです。
ちゃんと全部を暗記して話して、その子がコンテストの2番だったかな、良い成績でした。

賞品というのは前もって出場者に合わせて作っておくんですが、1番とか2番とかの差ではなくて、その子に合った賞品をあげようということになっていました。
2番になった子には、電子辞書をあげたんですが、1番になった生徒は、賞品がブランケットだったんです。
当然、包みの大きさが違うじゃないですか。
大きいのと小さいのとで、当人も、大きな包みは何だろうと思いますよね。
それで、その後、勉強に来た時、「あの人の大きい賞品は、何?」って聞くんです。あれはブランケットだけど、電子辞書とどっちが良かったと聞いたら、こっち(電子辞書)がいいって(笑)。

その子は、勉強中に、一度など私のところに缶コーヒーを持ってきてくれたんです。
「あなたの分は?」って聞いたら、子どもだからコーヒーは飲まないというんです。
とても素直で、優しい子でしたね。忘れられないです。

その子の家は生活も厳しかったのか、冬だってダウンジャケットとかなかなか買えない。
AARのスタッフが息子さんのジャケットを持ってきてくれて、それをあげたら、次の時には着てきました。

お兄ちゃんの方は、先生から何をして欲しいか聞かれて、国語とか歴史とかの教科書の漢字に、全部仮名をふってほしいというのです。
昔の人の名前とか、日本人でも読めないものが沢山ありますよね。

兄弟ともに品川区の都立高校に行きましたけど、樋口静子さん(「さぽうと21」の相談員。故人)が心配して、食べる物など持って家を訪ねたこともありましたね。
何か困ったことがあったら相談にいらっしゃいって言ったのだけど、来ないの。
せっかくああやって素直に育っているからね、今もまっすぐに育ってくれていればいいんですが。
日本での生活は、大変なことが多いですからね。

「さぽうと21」の相談員樋口静子さんのこと

亡くなってしまったのですが、一緒に仕事をしてきた樋口静子さんには、大きな影響を受けました。

樋口さんは支援生たちの一人一人をわが子のように心配し、面倒を見ていました。勉強に来なくなった子のところには雨のなか、家まで訪ねて行って話を聞いたり、阪神・淡路や東日本の震災の時は支援生の安否を気にかけ、いち早く現地に駆けつけたりしました。
支援生たちからも大変に慕われていて、日本のお母さんみたいな存在でした。

樋口さんはどんなに辛く苦しい時も顔には出さず、またどんなに素晴らしいことを成し得ても周囲に自慢することもなく、当然のごとく振る舞っていました。

ボランティアは「かくあらねばならない」と、私にとっては心のよりどころでした。
2016年に、亡くなったというのを聞いたときは本当に悲しく、寂しいなあと思いました。
AARに来る楽しみが一つ減ったというかね。
樋口さんに会いたくて来ていたようなところもありましたから。いろいろ助けてもらいましたね。

ボランティアの覚悟

ここに来なかったら全然わからないことが、沢山ありました。
社会に目を向けるというか、世界のことが良くわかったというか。
いろいろな人に恵まれて、勉強になりましたね。

私は言うのですよ、ボランティアっていうのは、授業料も払わないで勉強させてもらう場だと。
無給だから、適当でいい、いい加減でいいということはないと思うんです。
仕事を任されるわけですから。
むこうも信用して仕事を任せてくれるんだから、責任を持ってしなければいけないと思います。
これは仕事ですから、仕事にはスタッフもボランティアもないと思うんです。

DSC_0349

以前の写真を見ながら、AARでの活動について語る半田さん(左)と、聞き手の千葉さん

2011年以降は、東日本大震災がきっかけでボランティアを希望する人が増え、各自が担当する曜日を決めようということになり、私は毎週金曜日の担当になりました。
それからは、金曜日にお手伝いに来ることが、私の生活のパターンになりました。
金曜日はとにかくAARのボランティアが最優先で、いろいろな個人的な都合があっても、できるだけここへ来ることを考えて、年に1回か2回ぐらいしか休まないというのが普通でしたね。

ボランティアにも定年制が設けられることになって、原則78歳、でも、今来ている人は80歳まで続けて良いということが決まりました。

孫の結婚式に自作の着物を着て。

それで、その時5人ぐらいが辞めましたかね。
私一人が80歳を過ぎていましたが、有り難いことに、AAR会長の柳瀬房子さんから「もう少し続けて欲しい。」と言われ、スタッフからももう少しやったらどうですかと、お手紙をもらったんですよ。
それで、1年延ばさせていただきました。定年ですから、「卒業」ということで、その時、卒業証書を頂きました。

今は、地元の長寿会の会計やっており、お茶当番もしています。
そこの総会が毎年5月にありまして、今年度の決算書と来年度の予算案などを作っています。
出納帳も管理しており、行政から補助金をもらっているので、市から要請されたら、いつでも出せるようにしておかないといけません。
AARには、季節労働者(ボランティア)ですかね。
忙しい時に電話があったら参加させていただこうと思っています。
今年も、夏募金の時に、お手伝いに伺いましたが、お声をかけていただき、本当に有り難いですよ。

娘が太陽塾でボランティアをしていなかったら私もAARに来ていなかったでしょうし、偶然が出会わせてくれたということに、深い感慨を覚えます。
今では、偶然というよりは、必然だったようにも思えます。
とにかく、AARを通じて出会った方々に、感謝の気持ちで一杯です。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は千葉裕子。

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