エンジニアとして職業訓練校建設、井戸掘削に携わる。小松博史【ボランティア】

ガラ(タンザニア)のAAR事務所兼宿泊所の前でスタッフたちと。
井戸掘り作業には難民の人々が参加できる状況ではなく、スタッフは現地の住民から採用された。2列目右から2人目が小松さん。後ろに立つのはともにAARから派遣された運営・管理担当の田中さん。1985年。

こまつ・ひろし
1955年生まれ。AARには1979年の「インドシナ難民を助ける会」設立時からボランティアとして参加。1980年に旧国鉄(現JR)入社。主に海外事業部門で、開発途上国への技術支援や、海外での鉄道建設事業に従事。2016年にJRグループ企業の日本コンサルタンツに移り、現在はインド高速鉄道本部 部長(人材育成)。2009年までAAR常任理事。1992年のさぽうと21設立以来同団体の役員も務める。新潟県出身。

きっかけは現場からの声

私とAARを結びつけたのは、1970年代後半のインドシナ地域での政治的混乱に伴う大量の難民発生です。特に1979年に入ってからのカンボジア難民のタイへの大量流出でした。
カンボジアとの国境沿いには大規模な難民キャンプが設置され、流れ着いてくる人々のひどい状況が連日のようにニュースで報道されていました。

当時、私は日本大学理工学部に在籍していたのですが、タイのアジア工科大学院に派遣されていた川口昌宏教授から、現地では難民の乳児のための粉ミルクが不足しているなどの報告が届いていて、大学として何かできないか、ということになっていました。

特に海外の事情に関心があったわけでもなく、ごく普通の学生生活を送っていた私には、タイから伝えられるカンボジア難民の窮状は実にショッキングでした。
そこで、私がスタッフとして関わっていた日大理工学部学生会で、粉ミルク調達のための募金活動をやろう、ということになったのです。

最終的に1979年12月までに40万円ほどが集まったんですが、私は卒業研究も抱えていましたので、募金を届けに自分がカンボジアへ行くわけにもいくまい、どうやって現地に送金したらよいだろうかと考えあぐねていたところへ、指導教授から新たに「インドシナ難民を助ける会」という団体が設立されることになったらしい、ということを教えてもらったのです。
ちょうど新聞に、11月24日の設立総会の告知が掲載されていたんですよ。

そこで私は開設されたばかりのインドシナ難民を助ける会に募金を直接お渡しに行ったんです。
事務所は目黒区平町にあった国際積善協会内にありました。
協会の会長だった柳瀬眞さんがAARの初代事務局長です。
娘の房子さん(現AAR会長 柳瀬房子)や、房子さんの友人のお母さんたちが集まって作業をしていて、そこへ全国から寄付が集まってきていました。

次々と届くご寄付の整理、領収書の発行、お礼状作成などを全てボランティアが行っていたんです。

AAR創設者であり、初代会長の相馬雪香さんは当時はまだまだかくしゃくとしておられ、カンボジア難民キャンプに、藤田幸久さん(前参議院議員)をお供に自ら視察に出かけたりしていました。
現在AAR特別顧問の吹浦さん(兼、さぽうと21理事長 吹浦忠正)は、当時日本赤十字中央女子短大の助教授で、戦時救援活動の専門家として人道支援のため、いちはやく紛争直後のカンボジア・プノンペンを訪問していました。
みんな、海外の難民支援の現場にとにかく日本からのご寄付を届けたい、との思いでやっていたんです。

「自分でやりなさい」

お会いした柳瀬眞さんからは「自分たちが一生懸命集めたんだから、そのお金は自分たちで届けてきなさい」と言われてとてもびっくりしました。

その後、相馬さんとお話しする機会もあったのですが、同じように「自分で集めたお金なのだから、自分でおやりなさい」というようなことを言われました。
初期のAARはそういうところだったんです。

自分たちのような「アルバイトをしてためたお金を現地へ届けたい」と言ってくる学生は他にもいました。
日本国際ボランティアセンター(JVC)設立時のメンバーで、代表も務めた熊岡路矢さんもそんなうちのひとりです。

お金はないけれど、「とにかく現地に行きたい」と言ってくる向きも多かったようですが、そういう人たちに対しては現地へ行って自分には何ができるのか、自分で自分の面倒をちゃんと見られるのかをよく考えるように言っていたようです。

私はというと、「自分でやれ」と言われてすっかり「そうか」とその気になったのですが、まずは卒業研究を終わらせなければいけませんでした。

そちらになんとか目途をつけてから、タイの川口教授に連絡を取り、熊岡路矢さんと一緒に、いちばん安かったエジプト航空かなんかの航空券を買ってタイへ渡りました。
1980年の2月下旬のことです。渡航費は全て自分で持ち出し。
完全なボランティアでした。

自分たちにできることは……。エンジニアとして難民支援の現場で考えた

タイでは川口教授や、川口教授と共に1980年の3月にJVCを旗揚げした星野昌子さんなどが日本人会を通して支援を行っていました。
私が持っていった募金はとりあえずそこへ届けて支援物資の調達に使ってもらったのですが、私も熊岡さんも寄付を渡すだけでは満足できず、「何か自分たちにできることはないか」と相談しました。

タイにはいたものの、カンボジアとの国境近くにあった肝心のカオイダン難民キャンプには許可が下りずに行けなかったんです。

当時のタイには日本からも多くのボランティアが集まってきていて、空港近くの難民収容施設で子どもたちを相手に英語を教えたり、遊び相手になってあげたりしていたんですが、自分も熊岡さんも理工系だったので、何か別にやれることがあるのではないかと考えました。

当時、タイにはラオス難民も数多くいました。
ラオス難民のキャンプは東北部のウボンラチャタニというところにあったんですが、調べてみるといちばん困っているのは難民の人たちができる仕事がないということだったんです。

そこで、AARでラオス難民キャンプ内に自動車整備の訓練校を作ろうということになり、私が建物の設計図面作成を担当しました。

ほどなく、自分は4月でいったん日本へ帰国し、国鉄(現東日本旅客鉄道。JR東日本)に就職しました。
その後は国鉄の仕事をしながら、ボーナスをもらうたびに休暇を取ってはAARのボランティアとしてタイに渡り、ラオス難民・ベトナム難民・カンボジア難民それぞれのキャンプで職業訓練校建設の事業に携わっていました。

日本にいる難民のために

国鉄マンとなってからはそうそう海外に長期滞在するわけにはいかなくなったので、日本国内でのAARの活動にも関わるようになりました。

1982年夏には河口湖で、ラオス・カンボジア・ベトナムの難民を招いての「夏の合宿」の第1回を開催しました。
合宿の目的は日本に住む難民の人たちがどんなことに困っているのかを知り、AARの国内事業の参考とすることです。

この夏合宿は恒例となり、以降いろいろな場所でやるようになりました。
今はさぽうと21が毎年やっていますね。

日本で生活していた難民の子どもたちのほとんどは雪を見たことがなかったので、冬にスキー合宿として実施したこともあります。
難民の子どもたちは日本での生活に溶け込めずにストレスを抱えていることも多く、合宿で同じ境遇の仲間で集まると嬉しくて興奮してしまって、いろんなハプニングを起こします。
我々スタッフが宿泊先で方々に頭を下げて回るようなことも間々ありましたね。

難民のあいだではサッカーが人気スポーツだったので、サッカー大会を開催したりもしました。
ただ、サッカーだけだと男子ばかりが楽しんでいる、ということになってしまうので、日本も加えた4か国対抗の「難民オリンピック」を企画しました。
吹浦さんが教えていた日赤中央女子短期大学のグラウンドを借り、短大の学生さんにも参加してもらいました。

また、カンボジアの現場へ日本からのスタディツアーも企画し、団長として引率したりもしました。
日本で「愛のポシェット運動」と称して、多くの人に呼びかけて小袋(ポシェット)に贈り物を詰めて送ってもらい、現地までの郵送代も寄付を募ったんです。

中に入れるものも不足分は購入したりして。それをスタディツアー参加者と一緒に現地へ持っていって、小学校の子どもたちに手渡して交流してもらいました。

自分にとってカンボジア難民は、私とAARがつながることになった契機となっただけに強い思い入れがあります。

元カンボジア軍大佐と

そのなかでも、メアス・チャン・リープさんのことは特に強く記憶に焼き付いています。
メアスさんは元カンボジア軍の大佐で、日本留学経験があり、ポル・ポト時代に日本に亡命した方です。
奥様は日本人。ポル・ポト派が駆逐されたあとに母国カンボジアに戻り、ソン・サン派の中心人物として国会議員にまでなったのですが、国内での権力闘争や、所属していた党内での足の引っ張り合いを悲観して、プノンペンの国会議事堂で自殺してしまったんです。

私はタイの国境沿いのカンボジア難民キャンプにメアスさんと一緒に行って、物資配付や日本語学校、職業訓練校の支援などをやりました。
メアスさんはカンボジアに戻ってから、他の元カンボジア難民でAARが支援した人たちと「自分の国のためにできることをしたい」と、プノンペン郊外キエンクリエンでの職業訓練校の開設に取り組んでいました。
だから、彼が自ら命を絶った、というのは大変ショックでしたね。

タンザニアでの挑戦

国鉄入社5年後の1985年4月に私は鹿島建設に出向になり、5月からタンザニアのダルエスサラームに転勤を命じられました。
そこでは、世界銀行の資金を使って貨物列車基地の改修などを行いました。
私がタンザニアにいる間、AARはザンビアで事業を行っていたので、現地に駐在していた人がときどきダルエスサラームへ会いに来てくれました。

1985年7月には、ザンビア北西部のメヘバ難民キャンプで活動中だったAARスタッフの古賀繁さんが熱帯熱マラリアにかかり、現地で亡くなられるということがありました。
私はそのときはご遺体の日本への搬送に立ち会いました。
当時は空港での別送品の検査に関係者の立ち合いが求められたからです。

タンザニア滞在中には私自身もマラリアにはよくかかっていましたが、当時は風邪ぐらいにしか考えていなかったですね。
蚊に刺されないようにはしていましたが、それでもかかってしまうものなんです。熱が出たら無理せず休むようにしていました。

そういう土地なので、AARを通じて蚊帳を現地で配布したこともあります。
最初は無償で配っていたのですが、それだとすぐに転売して現金化されてしまうので、最後は安い値段ながら、買ってもらうようにしていました。

タンザニアからは1987年4月にいったん帰国しました。

ルワンダでの井戸掘削

その後90年代に入り、隣国ルワンダでフツ族とツチ族の民族紛争が激化し、周辺国に大量の難民が流出し始めました。

AARとしても何かしなければならないということになり、1994年からタンザニア北部、ルワンダとの国境近くのガラにあった難民キャンプで井戸掘削をやることになりました。

必要な事業資金はすべてご寄付を募って賄いました。

この事業に従事するために私はJR東日本を休職し、現地AARチームのリーダーとなりました。
かといって職員契約したわけではありません。
さすがに渡航費や現地での食事代程度は出してもらいましたが、基本的には完全なボランティアのままでした。

集まったご寄付で井戸掘り用のボーリング・マシンを調達し、当時現地に派遣されていた自衛隊機にキャンプまで運んでもらいました。
キャンプ内では専門家の大野篤志さんと共に、上総(かずさ)掘りと機械掘りの両方で井戸掘削をやりました。

作業中の小松さん(中央サングラスの男性)。難民キャンプではツチ族とフツ族の小競合もあり、少しでも早く水を供給することが課題だった。1985年

ルワンダ難民支援にこだわったわけ

ガラ難民キャンプでは、キャンプ内を車で移動中に周りを数百名の群衆に囲まれたことがあります。
敵対部族のナンバーの車に乗っていたらしくて、何をしているんだと思われたらしいんですね。
このときばかりは「下手すると、ここで最期になるかも」などとちらっと考えました。

ガラ難民キャンプにて機械堀りの作業にあたる。朝8時ごろから4時ごろまで作業し、治安の関係で遅くとも5時までには難民キャンプを出なければならなかった。1985年

ガラ滞在中には、一緒に駐在していたAAR職員の藤智江さんが車を運転中に銃撃されて大けがを負うというような事件も発生したので、当初3カ月と見込んでいた休職期間は4カ月に伸びてしまいました。
そのとき、彼女はひとりで運転していて事件に遭遇したので、それ以降単独での運転は禁止となりました。

休職してまでルワンダ難民支援に関わったのには、思い入れの強かったカンボジアでの1993年の総選挙に関われなかったということが大きいです。

この選挙にはAAR関係者も何人か選挙監視に参加していましたが、私は国内の仕事が多忙を極めていて時間を作れず、参加できなかったんです。
その後、1994年10月のモザンビーク大統領・議会統一選挙の選挙監視要員にAARから人を出すという話が持ち上がりました。
私も手を挙げていたのですが、その間にルワンダ難民の状況が急激に悪化していったんです。
ルワンダ国内には入れず、AARはタンザニア側から支援することになったため、タンザニア駐在経験があり、現地事情に通じていた私は、思い切って休職して参加することにしたんです。

まだガラ難民キャンプにいた1995年に、日本では阪神淡路大震災が発生しました。

キャンプにいた周りの人々がラジオの短波放送のニュースを聴いて、「お前の国は沈んでしまったぞ」などと言ってくるので、驚いて東京に問い合わせてみましたが、東京のスタッフはあまり慌てていなかったです。

神戸にはベトナム難民も多くいたので、AARとしてはそうした方々のために、初めて本格的に日本国内での緊急支援活動に取り組むことになりました。

井戸掘削事業自体は1年半ぐらいやったんですが、思っていたような成果はなかなか出なかった。

いろいろトラブルも起きたし、失敗も多かったんです。
井戸掘りは難しくてね、数メートルの違いで水が出たり出なかったりする。

アフリカでは人口が密集している地域には井戸は掘らない。
トイレの汚水槽が基本的に浸透式で、井戸水に滲み出してきてしまう可能性が高いからです。

それで、少し離れた人口の少ないところで掘るんですが、事前の水脈調査をいちおうやってはいるものの、しっかりボーリングをしたわけではなく、目視での調査だったので、いざ掘り始めると水脈を外してしまったり、硬い岩盤に当たってしまってあきらめるというようなこともありました。

こういうことを補助金や助成金を使ってやるのであれば、もっとしっかりとした事前調査を行って、確実に結果を出さなければならなくなるわけですが、当時は完全に自己資金でした。
つまり、ご寄付とボランティアの「善意」のみでやっていたため、結果もさることながら、まずは現地に赴いて事業をやることの方に意義があったんです。
たとえ失敗しても「すいません」で許されるようなところもありました。

今から考えるとずいぶん無茶なやり方をやっていたなあと思います。まさにトライ&エラーの連続でした。

当時から、日本国内で海外向けのご寄付がよく集まっていたのは赤十字でしたが、国際赤十字委員会では集まったご寄付のかなりの部分を調査費に充てていました。

私も海外でJICA関連の仕事をするようになって、きちんと事業を成功させるためには、事前調査にある程度お金をかけてちゃんと行うことが必要だということを改めて認識するようになりました。

職場の理解と海外とのつながり

ルワンダ難民キャンプでの井戸掘りで満足できるような成果を出せないまま休職期間が終了して帰国になってしまいました。

4カ月も会社を離れていて「退職しますか?」などと聞かれ、クビになるかとも思いましたが、幸い社内で「小松は海外担当」というような扱いになり、以降は日本国内で海外からの鉄道関係者の受け入れと技術研修の実施に従事したほか、中国、マレーシア、ベトナムなどでの海外事業にも携わるようになりました。

特に2005年以降は中国での高速鉄道建設事業に加わり、合計で約10年間中国に滞在しました。

こうなってくるとAARの活動に以前のように参加することはさすがに難しくなったので、帰国した際に国内でのいろいろなイベントに参加するようにしていました。

2014年からはJICAの事業で3年間ミャンマーに滞在しました。
ヤンゴンはAARが2000年に障がい者のための職業訓練校を開設した時にボランティアとして関わり、その後もスタディツアーで日本から視察のために何度か訪れた場所なのでよく知っていました。
当時のヤンゴン事務所の駐在員にもときどき会っていましたよ。
ミャンマーから日本に戻ってきてからは、さぽうと21で、夏の合宿や冬の研究発表、奨学生の面接などに関わっています。

AARでの経験が生きている今

最近はインドでの高速鉄道建設に関わっています。

日印両国政府間での合意に基づく巨大プロジェクトですが、インドでの用地取得がなかなか進んでおらず、鉄道施設の設計も思うように進んでいません。高速鉄道建設は日本の業者でないと無理な部分があるんですが、国内の業者は2020年のオリンピック・パラリンピック関連の仕事の方が忙しくてなかなか手が回らないんですね。資金的にもやりくりに苦労しています。

インド西部のグジャラート州の都市、バトーダラ(Vadodara)の高速鉄道研修センターの新幹線実習線。実際の高速鉄道は2023年に開業予定。小松さんは2016年以降、エンジニアとしてインドでの高速鉄道建設プロジェクトに関わっている。2019年

そんなインドで私が今やっているのは現地の高速鉄道技術者養成のための研修センターの建設です。
考えてみると、AARでも「まずは人材育成」ということで、いろいろなところで職業訓練校の建設に関わってきたんですが、その経験が生きていると思いますね。

JICAの事業でミャンマーにいたときも、毎月40名ぐらいずつの現地技術者に対して線路の保線技術を教えていました。2年間の滞在で合計600人以上に技術研修を行ったと思います。

インドでは研修センターの建物を作るだけでなく、カリキュラムやテキスト作りにも取り組んでいます。
JICAでも箱モノだけ作るのでは意味がないとして、カリキュラムやテキスト作りが重視されるようになってきているんですが、よいことだと思いますよ。

昔、AARで職業訓練校を作ったときにも、そこで使う日本語のテキストを作ったこともありました。
ラオスのビエンチャンで車いす工房を支援していたときも、大分県の社会福祉法人「太陽の家」から独立した車いす製造会社の「大分タキ」の上野茂社長に専門家として現地に指導に来ていただいたり、ラオスの人を研修のために日本へ呼んで、「太陽の家」と「大分タキ」で訓練を受けてもらったりしました。

これから

私自身が学生のときには柳瀬眞さんや奥様、吹浦さん、柳瀬房子さんにずいぶんお世話になりました。ボランティアとして支援の第一線を退いた今、それを返していかなければならないと思っていて、「ボランティアのためのボランティア」であることが大切だと考えています。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は穂積武寛。

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