にしむら だいすけ。NHKディレクター。 |
柳瀨さん・AARとの出会い
1985年から87年までNHKから派遣されて2年間オーストラリアで仕事をしました。オーストラリア放送協会ABCのスタッフとして国際放送の番組作りをしたんです。
オーストラリアは、若い人たちが当たり前のよう何のてらいも屈託もなく進んで他の人のために手を差し伸べる、また一方で自分でできるものは自分でしようというフロンティアスピリットが生きている社会でした。
そこでは日本の青年海外協力隊や、赤十字関係の多くの若者たちも活躍していて、非常に感銘を受けました。
そして日本に戻った時、『世界に羽ばたく若者たち』というタイトルでラジオ番組を作りたいと思ったんです。
出演者を検討している時に、アフリカで井戸を掘っている若者がいるという情報を得て、その方に出演依頼しようと考えました。
さていったいどこに行けばその人に会えるの?といったときに、「難民を助ける会」というのがアフリカのザンビアで支援活動をしていて、その活動の一環として上総掘りという井戸掘りをしているよという情報をつかみまして、直接交渉に動きました。
私は何でもそうなんですけれども、連絡をして、「実はこういうわけで、上総掘りをしているという若者にラジオに出てほしいんですけれども、背景とかも何も知らないので教えてください」と言って取材を申し込んだんです。
そして目黒にあった「難民を助ける会」の事務所に飛び込んだのが最初の出会いです。
そのときに応対してくださったのが美少女だった柳瀬房子さんでした。
今でも美少女ですけれども。
もう本当に丁寧に説明をしてくれて。どうしてザンビアにキャンプがあるのか、「それはね、アンゴラが近いからなんですよ」。何でアンゴラで?と言うと、「アンゴラは今、ご存じでしょ、ニュースでもやってるから。紛争で多くの人が逃れてきて」という、本当に1時間ぐらい話を聞いているうちに、アフリカのこととか、それから「難民を助ける会」がどういう支援をしているかということを聞いたんですね。
そのときに忘れられないのが、「大事なのは、相手の立場に立って支援をすることなんです。相手の目線で、相手が本当に必要なことを」と。
きれいに井戸を掘って、「はい、できました。じゃあ頑張って使ってくださいね」では駄目なんです。
井戸をどうやって掘るかということを、この技術を伝えて、日本からの技術屋が帰った後も自分たちで井戸が掘れる、自分たちでメンテナンスができるというふうにしないとねという。
はあー、なるほどねと。
これがすごくインプレッシブで印象が深くて、多分、「難民を助ける会」と付き合おうというか、そういう言い方は失礼ですね、もっともっといろんなことを教えてほしいと思ったのは、その言葉がきっかけでした。
人を幸せにできるという賜物
「情報」って言葉がありますけれど、「情」って情けなんですよね。やっぱり伝えるものの中には情けのあるもの、人の心を動かすものがなきゃと個人的に考えています。
普段有名な方ではなくて、その人の名前はほとんど知られないしこれからも知られることはないけれども、「こんな人がいるんだよ」とか、「こういうことがあるんだよ」というのを、報道の合間、合間に伝えたいなと思っています。
「難民を助ける会」を、こんなに継続して付き合って取り上げるようになったのは、まさに人がいたからです。
目黒の事務所に取材にうかがうと、いつも笑いがありました。
何か雰囲気がすごく良かったんです。
別の言い方をすると、難民に手を差し伸べる組織なのに悲愴な感じというのがゼロなんです。
それから、「大変なんだよ」という感じもゼロなんです。
房子さんはこういう人で、このとおりの口調で。
ピュアですね。優しいです。それで……。それで本当に感じがいいんですよ。
フランス語で言うサンパティックというやつですね。
何か、「ああ、この人と心通わせたいな」と思うものを持っている人。
人間のうちの一部には……、私はキリスト教徒だから、神様が与えた賜物の中で人を幸せにできるという賜物を持っている人が確実にいるんです。
房子さんはそれを持っている方です。
だからいつも笑顔だったし、「今日は何ですか」という取材の目的もさることながら、会って話をしたいなと思う人でしたし、私は何も、難民のことも、最初は地雷のことも知らなかったので。
私は対人地雷というのは本を読むより前に、「難民を助ける会」で一から教わりました。
「悪魔の兵器」と呼ばれる地雷についてたくさん教えてくださったのは、房子さんであり、長有紀枝さんであり、まさに「難民を助ける会」でした。
取材に行ったのか教えてもらいに行ったのか分からないくらいです。
「難民を助ける会」には、こんな活動をしているのかという、進んでいろいろなことに取り組む人がいっぱいいました。
井戸を掘る方もそうですけれども、現地に必要な食料とか衛生用品とかいろんなものを届ける方もいれば、その宛名を一生懸命書く人もいれば、寄付を募る知らせを書く方もいれば、その寄せてきた寄付にお返事を書く方もいたし。
何か私の中のイメージで支援活動というと、何かそういう脇役というのがふっと消えてしまって、「はい、現地に行って配っている人」、あるいは「現地に行ってがれきの中から引っ張り出す人」というのがイメージにあって、そうじゃないんだなということを教えられました。
また、一人一人がとても人懐こくて、これは多分、「私はこういうことをしたいんだ」という志を皆さんが持っていたからだと思う。
単に今、時間があるからやっているではなくて、志を持ってらっしゃる方が多かったから「そうか、そういうことも支援活動なんだ。みんなができる支援をしたし、できる活動をしたのだな」ということがわかりました。
房子さんの言い分は、「その人たちができることをしてくれればいいんです」。
それぞれの分野をそれが得意あるいはそれをやってることが全然自分にとって苦にならない、あるいはこれをやっていることがうれしいという方が一生懸命やっているんです。
これがやっぱり私をものすごく引き付けたと思います。
これは間違いありません。
だから折に触れていろんな方にインタビューをさせていただいたり活動を紹介したり、もう地雷はもちろんですけれども、愛のポシェットというプレゼントのこともそうですし、シンポジウムとか募金とかもしました。
マスコミ応援団
私だけでなく、NHKにもたくさん「難民を助ける会」のサポーターはいましたし、新聞各社にもいました。
私のところにも、「こういう催し物をやろうと思うんだけど」、あるいは「こういうイベントをやろうと思うんだけど」、「こういうプレゼントっていうのはどう思う?」。「こんなこと始めたのですけど取り上げてくださる?」と相談の電話がありました。
マスコミ応援団に共通していたのは「水をやるのは私たちだよね、せっかく芽を出しているのにこのまま水をやらなかったら枯れちゃうよ」「政府なんかいつまでたってもまだ向かないんだから」という気持ちだったと思います。
もう本当に、アイデア、アイデア、アイデア。
どうすればもっと、言ってみれば関心を持ってもらえる、目をこちらに向けてもらえる。
善意は皆さんにはあるんだから、どうすればその心の扉を開いて手を差し伸べてもらえるかということを、本当に考えられていた。
相馬雪香さんもそうですけれども、「本当はあるんだから」、「世界中見たって、私たちはそんなに冷たい人間じゃないのよ」というのは正しいんですよ。だけれどもどちらかというと戸をたたかないと出てこないというか。
房子さんはいつも、「お金を出すだけがサポートじゃない。できることをしてくださればいいんです」。
だからもしほんのちょっとでも取り上げていただけたら、それだってサポートになると話されていました。
相馬雪香さんとラジオ番組「ハイカラさん、世界を駆ける」
1996年7月、相馬雪香さんに1週間話を聞くという番組をやりました。『ラジオ談話室』という番組です。
雪香さんをどうやって、何でアピールしよう、「『難民を助ける会』会長をお招きしました」では駄目だよな。雪香さんとは房子さんを通して何回かお会いをしているので、「この人ってすごいハイカラなお姉さんだったね。オートバイの後ろに旦那乗せて走ったんだもんな」という。
今の時代なら不思議じゃないけれども、あの頃だからというので、はっとひらめいたのが、「ハイカラさん一代記」がいいや。
朝ドラみたいだけれども、「ハイカラさん一代記」で提案会議にかけて、結局は、『ハイカラさん、世界を駆ける』ということで、5日間、一代記をやることになりました。
雪香さんが生まれた頃の時代と、お父さまが尾崎咢堂先生ですから、もう話題はふんだんにある。
父の思い出あり、それからお父さまにくっ付いていろんなところを回られたこと、そして結婚されたこと。
けれども何かおとなしく家の中にいてお花、お茶をやる女の子ではなかったこと。
「あの頃オートバイを乗り回したのは私が最初じゃないかしら」とおっしゃる方ですから。
そしていよいよ肝心の「難民を助ける会」のスタートのいきさつへと。
柳瀨房子さんと、ラジオ番組「私は難民応援団」
雪香さんの翌年97年の1月、これも『ラジオ談話室』で今度は房子さんにご登場いただきました。
企画会議には、この時は絵本『地雷ではなく花をください』を出版した数カ月後でしたので、その絵本を作って地雷をとにかくなくそうという運動をされたこと。何でそもそも地雷がいけないのか。などについて柳瀬さんにお話しいただいて絵本の紹介もできるぞ。ともくろんで臨みました。
雪香さんの7カ月後に同じ団体から出演となるとちょっとものいいもつきそうでしたが「日本のNGOが、平和のため、地雷撤去に努力する姿を伝えたい。」と熱弁して通しました。
本番では、どんな支援をしているかということを本当に事細かに話していただきました。
難民を助ける会から学んだもの。難民の力、本当の姿
私は、「難民を助ける会」で教えてもらったのは、対人地雷とそしてもう一つは難民の本当の姿です。
イメージの難民は、着ているものがぼろぼろで痩せ細って、ほとんど「国境なき医師団」のテントに直行するような姿ばかりがあるんです。
かわいそうな人、手を差し伸べなければ倒れちゃう人、私たちのような少し豊かな人はもう進んで手を差し伸べようねという対象みたいな人。
けれども違うんですね。確かにそういう、命からがら身一つで来たんですから、そのときの写真やカメラの前に写った映像はそうかもしれない。
けれどもその人は私たちと同じ、もっと本が読みたくて、もっと勉強したくて、本当は医者になりたくて、いや、実は弁護士だったんですとか政府の仕事をしていたんですとか、いろんな賜物を持った方が心ならずも難民となってしまった方々。
ごく普通の人と同じように、向上心、修学心、勉強したいな、こういう仕事がしたいな、こういうことを覚えたいなという当たり前のような人々。
そういう人たちをもし支援することができたら、それは本当に日本社会の、というけちなことを言わずに、この世界の中で本当に人のためになる仕事をきっとするだろうという確信がもてました。
難民で来日しても、後になって活躍する人がいて、そういう人たちを受け入れているんだったら、この人たちを育てなきゃもったいないじゃないという。
その本当の難民の真の姿というか、あまりにもイメージ化された難民像しか持っていなかったということから、難民の真の姿というのかな、これを私が教えられたのも房子さんであり、「難民を助ける会」のおかげです。
たまたま今はふるさとを追われて日本にいるだけの方々なんだから、それはいろんな形でできることはしなきゃというのは本当に教えられました。
そういうことを、「分かんないかなあ、この間もあなたに言ったのよ」と思われながらも、何回も何回も説明してくれた人が、事務局長や代表幹事だけではなくてごく普通にいる人から、あるいは私が番組に招いた人からも教えられました。
※西村さんからはたくさんの奨学金をご寄付いただきました(柳瀬)。
この記事の聞き手は蘭信三。