両親がベトナム戦争で逃れ日本に ファム・ニーブン【支援生】

1988年生まれ。ルーツはベトナム。
2014年に東京工業大学大学院を卒業後はIBMでコンサルタントとして勤務。

大学時代にコンサルタントを目指す

大学2年生の頃、今いる環境をガラッと変えたくて大学院への進学を決めました。
大学の学部で学んだことだけでは満足できないというか、そのまま就職したら一部の会社のごく一部の部門しか知ることができませんし、もっと自分の視野・裾野を広げたいと思ったからです。
東工大には尊敬する先輩がいましたし、先輩が就職で内定していたコンサルタントという職種にも以前から興味を持っていました。
その先輩に誘われて受けた聴講は衝撃を受けるほど楽しくて、自分のやりたいことはここにあると思ったのです。

来日した経緯

両親がベトナム戦争でマレーシアに逃れ、僕が2歳になる前に日本に来ました。
日本を選んだ理由は、勤勉なイメージと、見た目が同じアジア人で似ているから子どもたちはいじめに遭わないだろうと思ったからだと聞いています。
高校生の時には両親から、資料が必要な時のために我が家の歴史をノートに書き留めておくように言われ、その時にベトナム戦争について学び、脱出した時のボートが10メートルくらいだったことなど、具体的な話も聞きました。
両親からは常々「日本人と同じような生活をしたいのなら、外国人のあなたは人の倍以上の努力をしなさい」と言われていたので、勉強も必死で頑張りました。

東工大大学院1年の時に日本国籍を取得

2012年の院生1年の頃に僕個人で日本国籍を取得しました。
目的はパスポートを作るためでしたが、外国籍だと諦めなければならないことや不自由なことも多かったからです。
でも、自分のルーツは捨てたくなかったので、名前は変えませんでした。
自宅での会話も、両親が日本語が流暢ではないこともあり、ベトナム語を中心に話しています。

「さぽうと21」に出会って

大学2年生から大学院卒業までお世話になりまして、支援がなければ今の自分はありませんでした。
これまで助けていただいた周りの方への感謝は常に持ち続けています。

子どもの頃は自分が外国人であることを受け入れられず、日本人になりたいと思っていましたが、「さぽうと21」に出会って、自分のルーツと向き合うことができたと感じています。
ここで出会った人たちはみんな明るくて魅力的で、自分の境遇を恥じることはないと気付かされましたし、進路に影響を与えてくれた先輩とも出会えました。

近年、日本ではグローバル化が叫ばれるようになり、むしろ外国にルーツを持つことは強みだと思うようになりました。

将来は日本を拠点にグローバルに

以前はベトナムに恩返しがしたいと思っていましたが、新興国はどんどん伸びていくので、特に僕が何かをする必要はないかなと。
一方、恩恵を受けた日本では人口が減って、経済規模はシュリンクしていきます。
そこで僕ができることは、日本で働くことだという思考になりました。
今後も自分が拠点としていくのは日本ですし、グローバルな目線で活躍できる人間として貢献していきたいです。


※この記事は、さぽうと21創設35周年記念誌『社会福祉法人さぽうと21の記録 36年目からの挑戦(2014年刊)』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。

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