柳瀬房子さんとはママ友。「ご飯も食べさせておくし、お風呂にも入れておくわ」 原田美智子【ボランティア】

目黒区平町のAAR初代事務所で作業中の原田さん。1980年代

はらだ・みちこ
1947年生まれ。AAR前常任理事。AAR創設時より友人であった柳瀬房子現AAR会長の依頼で、ボランティアを始める。2人の男の子を育てながら、さまざまな業務やイベントにおけるボランティアの取りまとめを行ってきた。現在も平日ボランティアとして活動中

マンションの同じ階に住んでいたのが……

私は生まれも育ちも大阪です。22歳のときに結婚し、主人の仕事の関係で東京に引っ越してきました。
そのときから目黒に住んでいたのですが、長男を妊娠したときに目黒区平町のマンションに引っ越したの。
そのマンションの同じ階に住んでいたのが、今のAAR会長の柳瀬房子さんです。

初めて会ったときは、お互いお腹が大きくて。
私が27歳、柳瀬さんは26歳でした。
それから、お友達としてのお付き合いが始まりました。
時々立ち話をしたり、お茶を飲んだり、というまさにご近所付き合いですね。

1974年の11月に柳瀬さんが女の子を出産されて、翌3月に私が長男を出産しました。
その頃うちの主人は仕事が忙しくて、あまり帰って来ないし、休みは寝てばかりで。
そんなことを話したら、「じゃあ、ちょっとどこかに連れ出してあげなきゃ!」と、柳瀬さんの運転で、私と子どもを郊外までドライブに連れていってくれたことなんかもありましたね。

偶然同じ年に子どもが生まれたご夫婦が同じ階に住んでいらして、そこと3家族で家族ぐるみのお付き合いをしていました。
その方は、現在は千葉県にお住まいなのですが、ずっとAARをご支援くださっていて、今でも毎回チャリティコンサートのたびにチケットを買ってくださっています。

「忙しいから手伝ってくださらない」

柳瀬さんのご実家がそのマンションから歩いて1~2分のところにありました。
当時、柳瀬さんのお父様、柳瀬眞さんはご自宅の離れで国際積善協会という団体を運営されていました。

房子さんは短大を卒業した後、お仕事を手伝っていらっしゃったみたいで、よくご実家に行かれていたようです。

私もご近所でしたから房子さんのご両親とも親しくさせていただいて、子どもたちにお年玉をもらったりしたことがあります。
お母様のユキ子さんとお父様がご一緒に散歩に出かけられる姿をよく拝見いたしました。
温和で優しく、とても親しみやすいお母様でした。

事務所でお手伝いをしていると、お昼の時間などによく手料理をご馳走してくださいまして、そのお料理も忘れられないですね。

1976年、長男が1歳半のときに近所に家を買って引っ越しました。
ですので、AARが活動を始めた1979年末は、AARのことは知りませんでした。

柳瀬さんはお忙しくされていたようでしたが、お父様のお仕事を手伝っていらっしゃるのかと思っていました。
それぞれ子どもを2人抱えていました。

設立の翌年、1980年に柳瀬眞さんが亡くなられ、房子さんが事務局長を継がれて、いよいよ忙しくなったときに、「大変なの。忙しいから手伝ってくださらない」とご連絡をいただきました。

「もちろん、私にできることなら手伝うよ」と引き受けました。
難民支援のためとか、ボランティアというよりは近所のお友達としてお手伝いをする、とうい気持ちでしたね。

まさか、それから40年も続くなんて、私も柳瀬さんも思ってもいませんでしたよ。

「ご飯も食べさせておくし、お風呂にも入れておくわ!」

最初は、宛名書きです。
当時はパソコンなんてありませんから、領収書や会報紙を送る宛名もすべて手書きです。あの頃は毎日のように大量のご寄付の現金書留が段ボールに入って届いていました。
そのご寄付の領収書をお送りするための封筒の宛名書きなどを頼まれました。
相馬前会長のお友達も大勢お手伝いくださいました。

目黒区平町のAAR初代事務所で作業中の原田さん。1980年代。

70歳近いお姑さんのようなみなさん。
それでも簡単にできる量ではありませんので、さらにご近所の方やPTA仲間にお願いし、封筒を配って歩き、出来上がった頃にそれを回収して事務所に届ける。

子どもたちも小さかったので、事務所に頻繁に行けるわけではないでしょ。
なので、家でやれることを持ち帰ってやっていました。

チャリティコンサートやイベントなんかがあると、柳瀬さんから「子どもを預かってくれない」と連絡が来て。
「いいわよ、いいわよ、うちの子と遊ばせておくわ。
ご飯も食べさせておくし、お風呂にも入れておくから、終わったら迎えに来てねー」という感じで(笑)。

柳瀬さんは、まだ30歳になったばかりの若さで事務局長になって、本当に必死でした。
AARの全責任を負っていらっしゃって。
よく大きなイベントが終わった後なんかは体調を崩されてね。
寝込んでいると聞くと、お見舞いに行って、ついでにお台所の洗い物をしたりもしましたよ。
子どもを預かったり家事を手伝ったり、主婦的なお手伝いも多かったです。
友人というより、姉妹や親戚みたいな感じかしらね。
私の子どもと柳瀬さんのお子さんたちもきょうだいのように育ちました。

ボランティアのリーダーとして

そのうち、子どもが小学校や幼稚園に上がると私も自由になる時間ができるので、事務所に通うようになりました。
事務所では、日々の領収書や会報誌の発送業務、そのスケジュール管理やほかのボランティアへの仕事の割り振り、電話番などをしていました。

電話番が大変でしたね。
AARの紹介が新聞に出ると電話が鳴りやまないのよ。
ホームページやメールはまだないですから、すべての問い合わせは電話です。

連絡をくれた方の名前と電話番号だけじゃなくて、住所も全部電話で聞き取らなくちゃならないでしょ。
郵便番号も3桁の時代です。
しっかりとその場で漢字の一字一句をしっかり聞いておかないといけない。

そして、受話器を置いたら、鳴る。
置いたら、鳴る。
その繰り返し(笑)。
メモを清書する時間もないので、電話が鳴らないように受話器をはずしっぱなしにしたりしていました。

当時は今よりもずっと頻繁にAARの活動が新聞やテレビで取り上げられていました。
マスコミの方もしょっちゅう事務所に来ていましたね。

そのうち、コンサートやキャンペーンの運営を担うようになりました。
事務所に通って事務作業をするボランティアの数も増えていきました。
東京事務局に有給の専従職員が雇用されたのは90年代の初めの頃。
でも、最初は数名でしたし、職員は海外の支援活動を担当していたので、国内での活動の運営は、ほぼボランティアが行っていました。

「じゃがいもの会」というチャリティコンサートのことはご存じかしら?
演歌歌手の森進一さんから芸能人にできるボランティアはないですか?
と吹浦忠正さんに相談があり、85年に「アフリカの子どもに水とミルクを!応援歌’85」を武道館で開催しました。

その翌年からは、普門館やNHKホールで「じゃがいもの会」としてコンサートを開くようになり、2002年まで続きました。
司会は黒柳徹子さんが務められ、千昌夫さんや細川たかしさん、前川清さんなど、毎年出演者は変わるのですが、著名な方々が大勢出演してくださいました。

ステージ側の企画や運営は柳瀬さんや吹浦忠正さんがやっていましたので、コンサートでの私たちの仕事は当日の会場、客席側の運営ですね。
ボランティアを集めて仕事を割り振ったり、販売するチャリティ商品を発注したり。
NHKホールは3階席まであり、各階にボランティアを配置しなくてはならないため、大人数が必要でした。

いつも事務所に来てくださる方だけでは足りませんので、PTA仲間や私の習い事の仲間にも声をかけて集めました。
あるとき、毎回コンサートを手伝ってくださる書道の先生に、「またお手伝いお願いできるかしら。生徒さんも連れてきてね」とお電話したら、「はーい、また置屋の女将をやりますねー(笑)」って、冗談を言われたりしましたよ。

そんな風にだんだんとボランティアをまとめる仕事をするようになっていきました。

AARを育てたさまざまなキャンペーンの裏方に

「愛のポシェット運動」のときも大変だったわね。
手作りのポシェットを作ってもらい、文房具やおもちゃなどを入れてAARが支援している国の子どもたちに贈る運動で、最初に行ったのが1993年。

子どもたちに贈る「愛のポシェット」を準備中(右端が原田さん)。1990年代。

内戦が終わったばかりのカンボジアの子どもたちに贈るために募りました。
そのときは、全国から13万個が届いたのよ。
品川の倉庫に届くのですが、私たちボランティアが倉庫に行き、1つ1つ開けて中身を確認。
中には、着古した洋服やお菓子なんかが入っているのもあるので、それらは出して、用意しておいた新しい文房具を入れます。
それを、また段ボールに入れて、カンボジアに発送できるよう梱包しました。

2、3年目からは収集については、ガールスカウトや立正佼成会の方々が、率先してお手伝いくださり、輸送料や、配布のための費用も募って下さいました。
有り難いことでした。

そのほかにもアフリカにおくるための毛布やTシャツを集めたり、毛糸で膝掛けを編んでもらってボスニアにおくったり、古い着物を集めてバザーをしたり。

倉庫に入りっぱなしで作業することもたくさんありました。
冬は寒いし夏は暑い。ずっと立ち仕事ですから、肉体的にも大変でした。
そうした大きなイベントやキャンペーンがあると、新聞に記事を書いてもらってボランティアを募るんですね。

最大90人にお願いしたことがありますが、そうした臨時ボランティアに仕事を割り振ることもやっていました。
今じゃとってもできないけど。
楽しかったな、と思い出すのは、そうした大変だったことが多いわね。

80年代、90年代は、現在のようにお金の寄付を募るだけでなく、何かを作ってもらったり、ものを集めたり、支援者が自分も参加できるような方法で協力を募る企画も多かったです。

だいたいは柳瀬さんのアイディアでしたね。
それでAARは多くの支援者を集めることができました。
そうした方々はその後もご寄付をくださったり、事務所にボランティアとして来るようになったり、AARの活動を今も支えてくださっています。

そして、その時代は、集めたポシェットや膝掛けなどを整理するボランティアが大活躍した時代だったんです。
だんだんと職員の数も増えてきて、今はコンサートの運営も職員が担当していますでしょ。
ボランティアは準備や当日のお手伝いになっていますね。

「柳瀬さんの手伝いなら、やっておいで」

多いときには週4~5回事務所に行くこともありました。
主人は「お母さん、その時間、パートに出ていたら、今頃すごいお金になっていたよね」って、冗談を言ったことがありましたが、柳瀬さんとは家族ぐるみお付き合いをしていましたでしょ。
「柳瀬さんの手伝いなら、やっておいで」と快く送り出してくれ、反対されたことも嫌な顔をされたこともありません。

その会社の社長に仲人をしてもらい、22歳で結婚しました。
ちょうど義兄が東京で出版社を立ち上げ、主人は印刷関係に強いということで呼ばれ、結婚式の後に東京に来ました。

今は出版業界も不況ですが、その当時は会社が大きく成長しましてね。おかげで、私は大好きなボランティアをこうして続けることができました。

子どもたちもそうです。
息子たちが高校生の頃はコンサートでのチャリティグッズの販売を友達と一緒に手伝ってくれていましたし、長男は大学生のときに愛のポシェット運動で、旧ユーゴスラビアにボランティアに行っています。
それらの経験をとても楽しんでいましたよ。

「陰口をたたかれてまで理事はやりたくありません」

私は割とおおざっぱな男っぽい性格でしょ。
でも柳瀬さんは本当に気遣いの人だから、日常の業務やイベントの際に注意されることもあるんです。
「え?そんなことまで気を遣ってやらなくちゃダメなの?」って思うこともありました。
それに人間ですからね、苦手な人はもちろんいましたよ。
でも、苦手と思って付き合わない。
話すときは、普通に話す。
みんなと同じように接してきましたね。

あと私、人を羨んだりすることがないの。
大勢のボランティアが集まっていて、それぞれ生活水準だって全然違います。
でも「人は人、私は私」って思うから、みんなと気楽にお付き合いができるのね。
見栄なんか張ると相手も感じ取りますから。

40年間で一つだけ嫌だなと思ったことを挙げるとすると、私が最初に理事に選ばれたときのことかしら。
たしかNPO法人格を取得して間もなくのタイミングだったと思いますが、「ボランティアから1人、理事を出すので原田さんお願い」と柳瀬さんから頼まれました。

「ボランティアから理事を出す必要なんてあるのかしら」と思いましたが、引き受けました。
そしたらね、なんだかまわりがザワザワしてきたんですね。
ボランティアの中に「どうして、原田さんなのか」と疑問に思う人がいたみたい。
不満に思う人たちの陰口が私にも伝わってきました。

私はいつも人を笑わせたくて、冗談ばっかり言ってるでしょ。
そういう様子を見て「自分のほうが優秀だから、理事にふさわしい」って思う方もいたのかもしれませんね。

私は役職には全く興味はありませんし、楽しくボランティアをやりたいだけでしたので、「陰口たたかれてまで、理事はやりたくありません」と辞退させていただきました。

それから1年後くらいに改めてボランティアが集まって理事を選出する場が設けられ、そこで「原田さんに」となったので、お引き受けしました。

2004年度から15年間続け、2018年度をもって退任しました。
でも、私の後任としてボランティアから理事が選ばれることはありませんでしたので、ボランティアからの理事が本当に必要だったかはわかりませんし、私が経営陣として役に立てたのかどうかもわかりません。

火曜日担当ボランティアの皆さんと発送作業中の原田さん(左列中央)。この日はマンスリーサポーターの協力を呼び掛けるお手紙を発送。1日で2000通から3000通を仕上げる。2019年3月。

考えてみればこの15年で事務局の状況も大きく変わりました。
ボランティアがイベントやキャンペーンの運営を担っていたころは、私も週に3日も4日も来ていましたし、ボランティア全員が顔を合わせることもありました。
ですが、今は職員がイベントも日々の業務も仕切ってくれています。
現在、私は火曜日に来ていますが、ほかの曜日の新しいボランティアの方とは顔を合わせることもありません。
それでも、問題はまったくありません。

AARにボランティアの力が必要なくなったわけではありませんが、職員も増え、AARが組織として成長してきたということですね。
そういう意味では、ボランティアから理事を出す必要はないのでしょうね。

40年間続けてきた秘訣は?

1つは、柳瀬さんが一生懸命やっていたからでしょうね。
30歳そこそこの若さで事務局長を継がれ、お嬢さん2人を抱えながら苦労されている姿を見てきました。

AARの将来を考え、日々資金繰りに頭を悩ませ、本当に必死でしたよ。
よく身体も壊されていましたし。
経済的に何の後ろ盾もない団体がここまで続けてこられたのも、柳瀬さんや吹浦さんが懸命にやってきたからだと思います。
もし、柳瀬さんが片手間にやっていたり、いい加減なことをしたり、不信感を抱くような出来事があったりしたら、続けていませんでしたね。
そして、おふたりからの「ご苦労さまでした」っていう気持ちね。
コンサートやイベントなどが終わると、必ず電話をくださって労いの言葉をかけてくれます。
その気持ちがあるから、いくら大変でも、「次も頑張ろう」って思い、続けられました。

もう1つは、やっぱり「楽しいから」ね。
「楽しくなければ続かない」に尽きますね。
私は人を笑わせるのが本当に大好きなの。
人が笑っているのを見ていると私自身も楽しくなるの。
だからボランティアに来てくれた仲間にも楽しんで帰ってもらいたい。
そんな気持ちでやっています。

AARでのボランティアが私の人生そのもの

2019年の6月に常任理事を退任し、7月からボランティアの回数を月2回に減らしてもらいました。
3年ほど前に、目黒から横浜市のマンションに引っ越し、通うのが大変になったということもありますし、新しいボランティアの方に仕事を覚えてもらって、そろそろ世代交代の準備を、という思いもありますね。

それに、引っ越したマンションの理事会や自治会の活動でとても忙しくなってしまって。
今は余裕がないのでお断りしていますが、民生委員や福祉委員にならないか、と声をかけられることも多いですね。そうやって、地域でも誰かの役に立てていることが本当にうれしいんです。

「喜んでくださる方がいるなら一生懸命やらなきゃ」と思って40年続いてきました。
たくさんの素敵な出会いにも恵まれたし、成長させていただきました。
AARでのボランティアが私の人生そのものね。
感謝の気持ちでいっぱいよ。

最近は職員の皆さんと話をすることも少なくなりました。
「原田さん、お久しぶりです」とか「駐在から戻りましたー」なんて、職員が声をかけてくれると本当に嬉しいわよ。

私がボランティアとして大切にしてきたのも、そうした心遣い。そうすると、みんなも気遣ってくれるようになるし。
だから、何十年もボランティアを続けている方も、新しい方もみんな「楽しいから来ています」って言ってくれていると思います。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は長井美帆子。

インタビューを終えて 長井美帆子
2007年の夏、AARへの入職が決まった後に、前職である協力隊を育てる会のクロスロード編集室に挨拶に行ったところ、たまたまNGO関係者と話す機会があった。
そのAARのことを知る方から、「あそこは、会長、理事長に大勢の取り巻きがいて、その人たちが、大きなイベントやキャンペーンをやっている。だからあそこまで大きくなったのだ」という、やっかみとも取れる言葉を聞いた。

入職後、その取り巻きと言われていた方々が、毎日事務所に来てくださっている大勢のボランティアの皆さんのことだと理解した。
まさにその方の言ったとおりで、何の後ろ盾もない市民団体が40年間も活動を続け、1年間に40万人を超える方々に直接支援を届けることができる団体にまで成長したのは、大勢のボランティアの方々の活躍と、それを引き付け支えた相馬前会長や柳瀬会長ら創設メンバーの情熱があったからこそだと思う。

このインタビューをまとめている間、2019年6月に原田さんが理事を退任され、ボランティアとしての活動も隔週となった。

AARの1つの時代が終わるのだと実感した。

ありがたいことに、現在もAARに協力したいと言ってくださるボランティア希望の方々からの問い合わせや、新規ご支援者からのご寄付は続いている。

そうした方々が、この先20年、30年と楽しくボランティアを続けられるよう、AARを支え、応援してくださるよう、組織としての力と魅力を創っていかなくてはならないと改めて思う。

関連記事

柳瀬房子 難民を助ける会名誉会長

吹浦忠正 さぽうと21会長

体験を語る|祖国を後に。その時ベトナム・カンボジアは

支援する人うける人 インタビュー ・・・続き

  1. エンジニアとして職業訓練校建設、井戸掘削に携わる。小松博史【ボランティア】

  2. 「ベトコン」塾でベトナム語のワープロをつくる。 吉田敦【ボランティア】

  3. 難民塾「太陽」開講当初から関わった国語教師 小渡美智子【ボランティア】

  4. ブラジルから日本へ。2つの文化があって私がある。柳瀬フラヴィア智恵美【支援生】

  5. AARでの日本語教師28年。「夏休みなのに来た、えらい。じゃあ、やろうか」 中山はる子【ボランティア】

  6. 「愛のポシェット」では日通の倉庫で肉体労働、「愛のひざ掛け」ではモチーフをつなぎ10,100枚に。 半田銈子【ボランティア】

  7. タイの難民キャンプ「サイトⅡ」で調査 吉田(渡辺)秀美【ボランティア】

  8. 私が進む道、 見つけた  森山(小林)ゆり【ボランティア】

  9. テロリストの危険から逃れペルーから来日。大城(比嘉)スサーナ【支援生】

  10. NHKラジオ制作で「難民を助ける会」を応援 西村大介【メディア】

  11. イランから難民として来日。父は23年間続けた仕事を40、50代になってすべて捨て祖国を離れる決心をした。【支援生】

TOP