海上を4日間。ベトナムからボートピープルとして来日。ハー アンヴォ

ハー アンヴォさんご一家

今お仕事は?

神奈川県の小学校、中学校の国際教室で教員をしています。

国際教室は日本語によるコミュニケーションが困難な子どもが日本の生活に適応できるよう支援するため、公立学校に設置されている教室です。私は藤沢市、伊勢原市、厚木市の教育委員会の学校教育課から派遣されて、主にベトナムにゆかりのある子どもを対象に日本語や日本での生活習慣などを教えています。

挨拶などの日常会話、ひらがな、ベトナムと日本の違いなどについて説明するところからのスタートですが、やる気のある子は1年ぐらいで日常会話を身につけます。
家庭内ではベトナム語を中心に話すケースが多いですが、子どもは友だちと遊びながらだいたいのことはわかるようになっていきます。

ヴォさんが日本に来られたのは1982年、ベトナム戦争終結から7年たってからですね。

私はもともと南ベトナムのサイゴンで暮らしていて、戦後も新政府の下で生活していました。
新政府が掲げる理想とはかけ離れた現実に直面する日々を送るなか、7年後のある日、国を脱出する機会が訪れ人生をかけてボートピープルとして日本に来たのです。

ベトナム戦争中は北ベトナムについてはどのようにとらえていたのでしょうか。

ベトナム戦争は、北ベトナムが“フランスの文化に支配されている南部を「解放」する”と攻め込んできて始まった戦争です。

私の家族は、母は公務員の交換手として、兄は軍人として働いていて何不自由なく自由に生活していましたので「解放」といわれてもピンときませんでした。
ですが、ラジオからは北の政府からの「南はアメリカに占領されて貧しい暮らしをしている」「社会主義社会になれば北のように平等で豊かな社会になる」というコントロールされた情報だけが流れてきますので、ホーチミンは私たちのために戦っているのだと感じていました。

戦後はどうだったのでしょうか。

戦争が終わって落ち着いた生活が戻ったわけではありません。
新政府は「苦しんでいる南の人々を助ける」と称して兵士を南部に送り込み支配を強めてきます。

元南の政府の関係者や軍人を排除しようとしますので、私の兄も再教育キャンプに行かされました。
キャンプといっても実際は刑務所です。
兵士は一般市民をも監視したり、家屋を差し押さえたり、壊したりもします。

私は当時希望する大学に合格したものの“履歴が悪い”との理由で合格を取り消されました。
その時は本当につらかったです。

仕事はどうされていたのでしょうか。

南ベトナムの時代に叔母が小学校を経営していたのですが、戦後新政府に接収されて保育園として運営されていました。
叔母はそこで校長として保育・教育に携わっており、その叔母が政府にかけあって私を教員として採用してくれたのでそこで3歳から6歳のクラスの担任として働いていました。

その頃は国を脱出しようという考えはなかったのでしょうか。

共産党政権からの圧力は続いていたものの、同じベトナム人ですので、これからよい国にしてくれるのだと、政府を信じていたのです。

もともとベトナム南部はフランス色が強く政治的に自由な体制だったので、良いことも悪いことも知ることができました。

ですが、統一政府は違います。
情報統制がされているので、耳に入ってくるのはよいニュースばかりですので、北部は理想的な社会だというイメージを持つようになるのです。
ですので、南部も北部のようになって欲しいと思っていたのです。

ただ、1954年のジュネーブ協定(1954年7月、米、仏、英、ソ、中が取り決めた協定。ベトナムを北緯17度線で南北に分け独立を認め、統一のための選挙を実施するというもの。実際は統一選挙は行われなかった。)のことを理解していて「共産主義」の実態をわかっている人たちや、早めに気付いた人たちは戦争が終結する前後に出国しました。

真相を知るまでのタイムラグが個人によってまちまちで、出国するタイミングも数年間生活してからという場合があるのです。
今現在も出たいという気持ちをもっている人もいるのです。

信じていた政府から出国しようと思ったきっかけは?

新政府になって、私は人民教員として働いており、夏休みは新政府の思想を学ぶ講習を受けることが義務付けられていました。
当時婚約していた夫は元南の軍人で再教育キャンプに行っていましたが、面会時には新政府になじむように説得しなければなりませんでした。
また、結婚するには届けを出しますが、教育委員会は旧南側の軍人と結婚することは認めない、結婚するなら出ていけと言い結婚届は受理されません。

ここで初めて政府に対して疑問を持ち、「共産主義」が野蛮な主義で、民族、国民のことなど考えておらず、党の利益だけを考えている。
戦争中に掲げていた内容と実際やっていることが違う。
ということをはっきりと理解したのです。

南部の都市部と北部の農村部は国の中でも貧富の差があったので冨をねたんで奪うのが狙いだったのだなと。

このような政権下では生きていけない、結婚するには出国するしかない、でもお金がありませんでした。

どのように出国されたのでしょうか。

主人は商船大学を卒業していて船舶を操縦することができました。
ある日、脱出用の船を用意するブローカーに、操縦士として乗船しないかと依頼をうけたのです。
乗船料は無料、もう1人だけ無料で乗せてよいという条件でした。
主人は交渉して私と他の2家族、全部で8人の乗船を認めさせ脱出することを決めたのです。
出航前に両家で結納式を執り行い名目上の妻となり出国しました。

船の行き先は決まっていたのでしょうか。

決まっていません。
とにかく海へ出るのです。
国際海域に出て、外国船に救助されるのだという一心です。
人伝えでアメリカが自由の国だという話を聞いていたので、アメリカに行きたいと漠然と思ってはいましたが、アメリカは戦争での複雑な気持ちもありましたし、助けてくれる船があれば、どの国でもという気持ちでした。

小さなボートに生後4ヵ月の赤ちゃんから79歳のおばあさんまで、144人が乗り込みました。

出航時、警察が撃ってくる機関銃の射撃をくぐりぬけ、ベトナム政府の手が及ばない国際海域に出たところでSOSの旗を振ります。
船には水・食料は十分にありましたが、船酔いと極度の緊張から食欲はありませんでした。

海に出て4日後、パナマ国籍のタンカーに救助されました。
後で聞いた話ではアメリカのヘリコプターが発見しタンカーに連絡したということでした。
タンカーの船長はノルウェー人で乗組員はノルウェー人、スペイン人、ポルトガル人だったと記憶しています。
船長はベトナムにいる母に無事を知らせる電報を打ってくれました。

船上でオーストラリア、アメリカ、フランス、カナダなどどの国へ行きたいのか希望を聞かれます。
私たちはそのタンカーが日本へ向かっていたので、日本に行くことになりました。
船長が日本政府に連絡して、日本政府の小さな船が迎えにきてくれました。

上陸したのは鳥取県の境港で日本の入国管理の方がとても親切に対応してくださったことがうれしく忘れられません。

その後は?

長崎県大村市の「難民一時レセプションセンター」に2週間滞在し、その後大分を経て新潟県柏崎市で生活を始めました。
1983年に長男のグォックが誕生し翌年長女が生まれました。
柏崎では7ヵ国語が話せる神父さまにとてもお世話になり安定した生活を送っていたのですが、ベトナムから来た私たちにとってはとにかく寒さが厳しいという悩みがありました。
私たちより先に来日した難民の友人が紹介してくれて神奈川県に移動し定住することになったのです。

ここでは英語も通じませんでしたので、日本語を話せるようになるのが一番苦労したことです。
幸いご近所の皆さんは親切で、とても恵まれた環境でした。
住めば都で今はどこの国へも行きたくありません。
受け入れてくれた日本政府には恩返しをしていきたいと思っています。

お子さんはお母様のお話を聞いてどのように感じていましたか。

グォックさん(写真右):こういった話は母から聞いたり、本を読んだり映像を見たりして自分が知りえる限り知識を得てきました。
何が良くて何が悪いとか、ことあるごとに家族で話し合って認識を統一・共有しています。

私はどっぷりと最初から日本の子どもと変わらない日本の教育を受けて育ちました。
大学では建築を専門に学び2年間建築・建設関係の会社で働いたのですが、リーマンショックで建築業界が停滞するなか仕事に魅力を感じなくなってしまい、転職を決めました。
広告代理店で雑誌関係の仕事も経験し、現在はフリーで仕事をしています。
教育委員会の手伝い、東京弁護士会での通訳、旅行代理店業のツアコン、企業の通訳など語学を生かして様々なジャンルで活動しています。

今後も好奇心を強くもっていろいろチャレンジしていきたいと思っています。

フォングさん(写真左):立正大学の3年生で対人・社会心理学を専攻しています。
プレゼンテーションの仕方、リーダーシップのとりかた等を学んでいます。
心理学は領域の幅が広いので将来どこかで生かせればいいと思っています。

※この記事は、さぽうと21創設35周年記念誌『社会福祉法人さぽうと21の記録 36年目からの挑戦(2014年刊)』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。

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