たけなが けん。ヴー・ダン・コイ
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今のお仕事は?
東京都新宿区内でクリニックの院長をしています。
ここで開業していた、たまたま同じ医大の先輩だった前院長から託されたのです。
このあたりは住宅街なので、お年寄りから子どもまで様々な患者さんがいらっしゃいます。
また、昔からミャンマー人が多く住んでいたことがあり、アジアを中心とした外国人の患者さんが多いことが特徴です。
私はベトナム語の他、日本語、英語、フランス語が話せるので、患者さんとは丁寧にコミュニケーションをとって診察し、薬を処方することを心がけています。
来日するまでのベトナムでのご様子は?
私はベトナム戦争が終わった1975年頃までは、ベトナム南部のサイゴン(現ホーチミン市)に両親と長男、姉6人、私、妹の家族11人で比較的のんびりと生活していました。
ところが1975年4月、サイゴンが陥落すると一夜にして状況が激変しました。南ベトナム側の旧政権とかかわっていた人々は政治犯として扱われる危険が強まり、父も南側の1人として姉と共にジャングルに隠れながらの生活を強いられるようになったのです。
父はサイゴン政府陥落が確実視された頃から私たち家族を外国に逃れさせる手立てを模索していたようです。特に私は徴兵の年齢が近付いていたので、優先してボートで脱出させようと手をつくしてくれました。
ボートで脱出するルートは?
どこに行けば乗れて、どこに行けば脱出できるという決まったルートがあるわけではありません。
逃げるために、口コミや密売のようなネットワークをたよりにとにかく自力で探します。
目立たないように家族も何人かずつで実行します。
見つかると逮捕されるのですが、警察も腐敗しているのでわいろを払えば、ボートに乗ることはできなくても、見逃されます。
ボートはそれを商売にしている人がいて、その人が船と1日もつかどうかといったガソリンを売っています。
人数が集まらないとお金が足りないので出航は中止になります。
ボートは20人、30人乗りもあれば、200人規模のものもあります。
ようやく船に乗れても、今度はタイ沿岸で海賊化した漁民に襲われる危険があります。
脱出する人々は金やドルを持っているのでそれを狙って奪いにくるのです。
女性は襲われ、子どもは殺されます。
この時点で多くの人が命を落としています。
脱出は命がけ、財産も全てかけます。
私は脱出には7回挑戦しましたが、人数が集まらなかったり、事前に発覚して諦めて帰らざるをえなかったり、海洋公安部(警察の一種)に捕まったこともあったりなどで成功しませんでした。
日本へはどのようにしていらしたのでしょうか。
兄が1971年から日本へ留学していて、サイゴンが陥落した後は日本に留まっていました。
その頃ボートピープルの問題が国際的に認識されるようになり、国連が合法的にベトナムから国外へ渡れるよう、外国に居住している人が呼び寄せることができる制度を設けました。
日本でその制度を知った兄が1980年に書類を送ってくれ、1982年に家族7人で日本に来たのです。
来日してからは?
まずは神奈川県大和市に設けられていた「難民定住促進センター」に滞在し、3ヵ月間日本語・日本生活研修を受けます。
研修修了後は、相模原市のアパートで家族で暮らし始めました。
一家の家計はコンピュータ会社に勤務する兄と、難民センターの紹介で赤坂のホテルに就職した姉の2人が支えていました。
贅沢はできませんでしたが、人間の基本的権利が確保された日本で生活できることに、家族全員幸せを感じていました。
私は中学校2年生に編入し、友人と交わるうちに日本語も習得していきました。
高校への進学は中学の先生からは夜間高校や工業高校を勧められたのですが、普通科を強く希望しました。
私は英会話が得意でフランス語も少し話せましたのでアメリカンスクールという提案もありましたが、これから日本で暮らしていこうと思っているのにそれでは「負け」だと思いました。
第一お金がありません。
神奈川県立高校の合否は内申書の成績が重視されるのですが、中学校の校長先生と高校の校長先生が話し合ってくれ、入学試験で数学・理科・英語は満点をとり無事合格することができました。
難民を助ける会との出会いは?
兄が友人のネットワークで「難民を助ける会」を知っていたつながりで、高校2年生の夏、「助ける会」主催の合宿に参加しました。
この合宿は、「助ける会」の支援を受けている方々が一同に会し、勉強発表会や研修会などを行うものです。
夜はゲームやカラオケをするなどで親睦を深めたり、情報を交換したり悩みを相談しあったりなど、アットホームな雰囲気の中でベトナム以外から日本にこられた方や支援者の方などと交流することができます。
この合宿中に吹浦忠正先生(現さぽうと21理事長)が難民医学生の話をされたのですが、そのお話を聞いた瞬間、私もぜひ自分でもチャレンジしたいと強く思い医学の道をめざす気持ちが固まったのです。
それからはアルバイトの時間を削って勉強に励みました。
「助ける会」が代々木ゼミナールで2週間に1回、土曜日の補習を無料で受けるようにとりはからってくださり、1年間の浪人生活を経て杏林大学医学部に合格することができました。
作家の曽野綾子先生のお取り計らいで産経新聞が私のことを記事にしてくださったことで、読者の方々から寄付金をいただいたり、杏林大学が奨学金を創設してくださったりなどで、学費も工面することができ、晴れて医学部に入学したのです。
入学してからは一生懸命勉強し、6年後に無事卒業しました。
卒業後は?
最初は杏林大学救急救命センターで勤務し、1999年には南極調査船「白嶺丸」の船医として乗船しスタッフの健康を管理していました。
南極は“真っ青な空と真っ白な雪”のイメージからはかけはなれた、昼も夜もわからない全てがグレーの音一つしない世界でした。
神と悪魔が戦っているような精神的にも追いつめられるような環境で、メンタル面のサポートも行いました。
その後は琉球大学の救命救急センターに派遣され、生死を分ける場面に日々直面しながら医者としての経験を積みました。
日本国籍を取得したのは?
1994年に大学を卒業して医師になった年です。
もとの名前は「ヴー・ダン・コイ」。
武はベトナム漢字の「武(ヴー)」から、「永」はヴー家の繁栄の願いを込めて、「賢」は「コイ」と音が似ているので選んだものです。
日本に30年以上暮らしてみていかがですか。
まず、日本の教育は素晴らしい。誰もが一定レベルのことを同じように行うことができます。
父が生前話していて鮮明に覚えているのが、「旧日本軍では誰か1人が突然いなくなっても、代役となる人が必ずいる。
例えば、運転手がいなくなったら代わりに運転できる人がいて、結果として物事を支障なく進行することができる」ということです。
また、職業差別の考え方がないことも素晴らしいことです。
小学校の時から給食当番、掃除当番を誰もが普通に行っていますから、大人になってもウェイターやビルの清掃係をさげすむことがなく、どんな職業にも尊敬の念を持っています。
そしてそれぞれが与えられた場所で全てを引き受けて責任を果たそうとします。
それが日本人の気質を形成しているのだと思います。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の時、新宿では普段は騒いでいる若者も静かに行儀よく行動していて、デパートでも略奪が起こらない。
2014年のサッカーワールドカップでもサポーターがスタジアムのゴミ拾いをして世界から絶賛されました。
こんなに人々が礼儀正しく行いが丁寧な国は他にありません。
今、私はそんな日本を心の底から愛していて、「日本に生まれてよかった」と言っては友人から“生まれてないだろう!”とツッコミを入れられています。
今後は?
「ビビビ」と感じるものがあったらチャンスに向かって突き進んでいきたいです。
日本でとかベトナムでとかどこでどう働きたいなど先のことは考えず、明日は明日の風が吹く、の気持ちで生きていきたいと思っています。