ベトナム戦争の終結
1975年、ベトナム戦争が終結しました。
そこに訪れたのは平和ではなく、政治的大混乱でした。
新しく政権を担った政府が、旧政権の指導的立場にあった人や、新政権に反抗的な国民を弾圧し始めたのです。
弾圧された人々は国内に留まっていては命の危険にさらされ続けるので、国外へ脱出するしかありません。
混乱はベトナムに隣接するカンボジアやラオスのインドシナ3国に広がっていました。
カンボジアやラオスの人々はメコン川などの国境を越え、またベトナムの人々は海辺からボートに乗って海を渡り、海外に救いを求めました。
合わせて100万人以上の人々がいました。
こういった、自国の政府から迫害を受けて他国に逃れる人々を難民とよびます。
難民と日本人
インドシナ難民のニュースは世界で、もちろん日本でも報道され、ボートで避難してきた人々はボートピープルとよばれ世界的な注目が集まっていました。
1975年といえば、世界ではアメリカの宇宙船アポロ18号とソ連の宇宙船ソユーズ19号が宇宙空間でドッキングに成功、日本では沖縄国際海洋博覧会が開催され、経済白書が高度成長から安定成長へと記し、テレビ番組では「欽ドン」がスタートするなど、成長の豊かさにひたって暮らしている時代でした。
インドシナ周辺では、難民となった人々を支援する難民キャンプが設けられていましたが、ここで支援活動を行う日本人は1人もいませんでした。また、日本国としてボートピープルの難民を受け入れることもしていませんでした。
「難民に冷たい日本人」
そんな時、難民を助ける会創設者の相馬雪香さんがカナダの友人から手紙をもらいました。
そこには「日本は難民に対してなにもしていない。心が冷たい恥ずべき国だ」と非難する内容が書かれていたのです。
相馬さんは近代日本政治史に名を刻む政治家である尾崎行雄の三女で、同時通訳の仕事に就き数十年にわたってさまざまな国際的活動に従事していました。
尾崎行雄
明治時代、政治は薩摩藩(鹿児島)、長州藩(山口)出身者を中心として行われていた。
尾崎はこの藩閥政治による政治を打破し選挙による政党政治をめざした。1913(大正2)年、長州出身の桂内閣が不信任案を出された際の有名な演説「彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」は尾崎行雄が議会で弾劾したもの。
右が尾崎、左が桂太郎
議会制民主主義の確立に尽力したことで、犬養毅とならび「二大憲政の神様」とよばれる。
「インドシナ難民を助ける会」設立。
“冗談ではない。そこまで言われて黙っているわけにはいかない。誤解をどうやって解こうか”考えた相馬さんは早速行動しました。
友人たちに「日本人の心に古来、脈々と伝わっている善意を結集しよう」と声を掛けインドシナ難民を支援する民間団体を創ろうと思い立ったのです。
思い立ったはよいけれど、難民を支援するために先立つものはお金です。
相馬さんは「日本人が1人1円ずつ出せば1億1000万円よ」と意気込むものの、まだ”ボランティア”という概念が世間に広まっていない時代、思いがあれば簡単にお金が集まるというわけではありません。
相馬さんの意思を聞きつけた安全保障問題の専門家で社会活動家・政治活動家の末次一郎さんが、サポートに送り込んだのが「インドシナ難民を助ける会」初代幹事長となる吹浦忠正さんです。
吹浦さんが外務省に働きかけたところ、猛反対にあいます。
「パスポートのない人が日本に来るなどということはあってはならない。入国管理は重要な国の主権にかかわること。
とにかくこのような活動は止めてくれ。政府にまかせてくれ」というのです。
政府の協力は得られず、資金、人材のめどもつかないでいる時に救世主が表れます。
国際積善協会を主宰されていた柳瀬眞さんです。
柳瀬さんは「困っている人がいれば、もうなんでもやれ」という人。
「場所も金もないんだったら自分のところの離れを使っていいよ」といとも簡単に話し、自宅の離れを「インドシナ難民を助ける会」の事務所に提供したのです。
そして同時に「電話番くらいうちの娘にさせます」とも。
“うちの娘”が現在の難民を助ける会名誉会長の柳瀬房子さんです。
1979年11月24日「インドシナ難民を助ける会」が設立されました。
「インドシナ難民を助ける会」から「難民を助ける会」に
日本青年館で開催した設立記念総会が新聞各紙で紹介されると、事務所をおいたその日から、マスコミをはじめ、難民キャンプや東京の事務所でボランティアをしたいという大勢の方々、募金をしたいという皆さん、難民本人たちも次々と来会され、大忙し。
房子さんはその交通整理を一人でこなすことになりました。
柳瀬眞さんの尽力と、朝日新聞、読売新聞が記事にしたことで事務所には現金書留が段ボールで配達されてくるようになるなどで、半年で1億5,000万円~1億6,000万円(当時の額で)の善意が集まりました。
以降、様々なアイデアでイベントを行うなどで多くの方々に難民について知ってもらう活動を重ね、創立5周年の1984年にはインドシナ難民だけでなく、世界の難民に対象を広げることを決め、名称も「インドシナ難民を助ける会」から「難民を助ける会」に変更しました。
また1992年には国内事業に特化した「さぽうと21」を設け、世界の難民や、日本に救いを求めてきたり、日本に正規に滞在している外国出身の方々の支援を続けています。
創立メンバー紹介
吹浦 忠正(ふきうら ただまさ)
1941年秋田県生まれ。日本で開催した全4回のオリンピックで国旗や儀典に関わる。難民を助ける会副会長(現・特別顧問)、埼玉県立大学教授、拓殖大学客員教授などを経て、現在、評論家、社会福祉法人さぽうと21、ユーラシア21研究所各理事長、日本遊技関連事業協会理事、献血供給事業団監事、協力隊を育てる会参与、東京コミュニティカレッジ理事、法務省難民審査参与員、東京ニューシティ管弦楽団理事、世界の国旗・国歌研究協会共同代表。
柳瀬 房子(やなせ ふさこ)
1948年、東京都出身。フェリス女学院短大卒、青山学院大学大学院修了。1979年からAARで活動を始め、専務理事・事務局長を経て2000年11月から2008年6月までAAR理事長。2009年7月より会長。
1996年、多年にわたる国際協力活動により、外務大臣表彰を受ける。1997年には、『地雷ではなく花をください』により日本絵本読者賞を受賞。法務省難民審査参与員。
難民支援活動や地雷廃絶キャンペーンのため、国内での講演はもとより、海外でも活躍。