不思議な縁がつながって 柳瀬房子

やなせ・ふさこ
1948年、東京都出身。フェリス女学院短大卒、青山学院大学大学院修了。1979年からAARで活動を始め、専務理事・事務局長を経て2000年11月から2008年6月までAAR理事長。2009年7月より会長。
1996年、多年にわたる国際協力活動により、外務大臣表彰を受ける。1997年には、『地雷ではなく花をください』により日本絵本読者賞を受賞。法務省難民審査参与員。難民支援活動や地雷廃絶キャンペーンのため、国内での講演はもとより、海外でも活躍。

「柳瀬房子」を作ったもの

全国警察広報紙「トリビューン」

5歳の時に、近所の警察署にダリアを持って行って警察の広報紙に載ったことがあります。
母との買物の帰りに護送車から降りてきた手錠をはめられた留置人をみかけ、その方々に届けたくて一人でいったのです。

碑文谷警察に花を持って行くなんて、客観的にみるとおかしいでしょう?
でもその時はそう思ったの。
こどもの頃は悪い人も留置場に入ってしばらくいればみんなよくなると思っていたのだと思う。
母も、そういうことはやめなさいと止める人ではありませんでした。まさか一人で行くとは思わなかったということはあっても、やむにやまれぬ気持ちをくみとって、ダリアの花を摘んでくれたのだと思う。

花というのは、私にとって人を思いやる気持ちの象徴なのかもしれない。
40周年記念に写真集を発刊しましたが、そのタイトルも「花々・Flowers」にしたの。私が文を執筆した絵本『地雷ではなく花をください』もやはり花に大切な役割を持たせたでしょう。

全国警察広報紙「トリビューン」昭和28年10月13日発行に掲載された記事

「留置場への愛の花束」

この童女は目黒区平町64、柳瀬眞氏の一粒種房子ちゃんで、本年やっと5歳。前日夕刻お母さんの買物について行っての帰り道、はからずも碑文谷署の門前で護送車から下りてくる数珠つなぎになった手錠の留置人たちを生まれて初めて見て異常なショックを受けたらしい。
同夜はまんじりともせず翌朝は早くから「あの人たちにお花をもっていってあげる」といってきかないので庭のダリアを切って与えたものの、お母さんはまさか一人で行こうとは思わないのでそのままにしていると午後になっていつの間にか、自分がオヤツに頂いたリンゴまで添えてたった一人で来てしまったという。
しかも便箋1枚に、たどたどしいながらも五ツの女の子には包み切れぬ大きな愛情を一念こめて書き上げた切々の文字。これをきれいに折りたたんでエプロンの小さいポケットに入れていたのには並み居るお巡りのオヂさんたちいづれもホロリ。
石井次席が抱きかかえるようにして署長室へ入った房子ちゃん、天国にでも遊びに来たように嬉しそうに目をパチパチしている。そして署長の大きな机に伸び上がるようにすれば、署長は机におおいかぶさるようにして、ダリアの花束が小さい手から渡される。たった一個のリンゴも渡される……。
捕り縄とっては、部内有数を謳われる流石に猛き野田庸三署長もこの瞬間、声なく、只「お母さんは?」「お父さんは?」という

ようなことを一言、二言いっては声をのみ、まじまじと童女の姿に自愛の眼を注ぐのみという誠に麗しい感激のシーンであった。
軈て、この愛情の花とリンゴは房子ちゃんの望み通り、留置場へ石井次席から、わけを話して渡されたところ、果せる哉、一同涙を浮かべ、場内ゲキとして声なかったという。斯くて、その様子は早速房子ちゃんに解るように伝えられ房子ちゃん大いに満足し、野田署長心づくしのキャラメルをお土産にして婦警さんに送られ喜々として帰っていった。
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房子ちゃんの手紙(原文のまま)
ひもんやのおまわりさん、きのうふさこはママとおつかいにでかけました。ゆうがたけいさつのまえでじどうしゃからわるいひとがたくさんおりてきたのでおどろいてママにとびついてしまいました。でもよくなったひとにあげてください。わたしがおつかえしたおりんごもあげてください。
やなせ ふさこ
おまわりさんえ
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小学館の学習雑誌・小学4年生

もう1つ、小学4年生に投書した文章が掲載されたことがあります。
こちらは、小学校4年生の時に日赤の乳児園を訪ねて服などを寄付したときのことです。

この頃弟が生まれたの。
年が離れて生まれた子で、長男ということで、親戚縁者からいっぱいお祝いをいただいたの。
使いきれないくらいの毛布や服をいただいて乳児園のことを調べ、多分電話帳で探し連絡したら大歓迎ということで、届けたんです。

小学館発行の学習雑誌・小学4年生に掲載された文章。

〔要約〕

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柳瀬さんは乳児園にようふくなどを寄付した。そして乳児園を見学した。そこにはふた子の子やちぢれ毛の子がいて、それぞれみんなかわいい顔をしている。
帰るときは「バイバイ」とみな人なつっこくて、かわいい。
いい事をしたあとの気持ちは、いうまでもない。
この子たちはどうしておかあさんといっしょにくらせないのか。夜になっておかあさんの事を思い出す子もいるのではないだろうか。それをみていると自然に涙が出てきそうになる。早くこの子たちがおかあさんといっしょにくらすのを待っている。
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面白かったのが、この雑誌の掲載により日本中からお手紙をいただいたの。文通をしたいと。その中に沖縄からの航空便もあったんです。
これをきっかけに沖縄のことが気になるようになって。沖縄が台風で大変というニュースに触れ、うちにあるお米を送ろうと思いついたのです。せいぜい1升、2升の量だけれど袋に詰めて、小包を送ろうと郵便局へ持って行ったら、沖縄は当時まだ外国でしたので、お米は送れないと断られそうになってしまったけれど、近所の郵便局だったので局長さんが知り合いで多分私が泣きだしそうになっていたのでしょう「内緒で一回だけ送ってあげるね」と言ってくださったのです。
文通相手の小学校の校長先生が感激されてお返しにということで沖縄から黒砂糖を送って下さいました。
それを学校に「こんな塊をいただいた」と持って行ってみんなで分けて食べたことを思い出します。これに校長先生が沖縄の方にお礼を出して。

思う通りにしてごらん

碑文谷署のこともそうですが、そういった行動に両親ともやめなさいとは決して言いませんでした。むしろ「思うとおりにしてごらん!」という環境でした。

両親からはやらされたというわけではないけれど、今思うと「そうするものだ」という体験はしてきました。
小学生の頃だったと思うのだけれど、本当に本当に一番欲しかったプレゼントをサンタさんにもらったの。
色紙とかお菓子の包みとかそのようなものだったと思うのだけれど、とてもうれしく喜んでいたら。
たまたま父のところに父親のいないお子さんがこられて、父が「これお嬢ちゃんにあげなさい」って言って……。
全部あげちゃった。

成人式の時の話なのですが、振袖を揃えてもらっていて、当然着付けをして式に臨む予定にしていたんです。
ところが、これもたまたま女性の方が見えていて、その方が成人式ということがわかったらしく、突然「着物を貸してあげなさい」と言われて。
「え、私着て行こうと思っていたのに」と思いましたけど、しょうがないのでスーツで行きました。

両親にしたら「これはあなたのものなのだからいいじゃない。
返ってくるのだからまた着れば」という発想なのです。
「自分の子よりも他の子どもに」が日常でした。

おそらく、お互い助け合って生きてきた時代の親なのではないでしょうか。
父は体が弱かったので、少しでも人の役に立つことがあれば、と常に考えていたし、母もそれに協力していました。
そういった中で育ってきたので、難民の支援活動もごくごくあたりまえのこととして続けてきたんです。

「電話番くらい娘にさせます」の一言で。

40年を振り返ると

40年は長く、またあっという間でした。
すごく一日一日が充実していましたし、今もしています。
会の活動だけではないのですが毎日いくつもの宿題があります。
それを一つ一つこなすしかない。
ですので、毎日が感謝の日々、おかげさまの日々です。

私は大変恵まれています。
例えば宿題が10項目あったとしたら、7、8項目は良いほうに展開してくれました。
あとの1、2は難しくこじれてしまうこともありましたけれど。
有り難い感謝の日々です。

難民を助ける会参加のきっかけ

1975年にベトナム戦争が終結して以降、連日のように新聞紙上に記載されていたのは、南シナ海を漂うボートピープルの写真でした。

日本政府はこの方々の定住は打ち出していませんでした。
相馬雪香先生が「このような受け入れ態勢では日本は世界から孤立する」と発起されて1979年11月に民間の難民支援団体を設立する運びになったのです。
今からちょうど40年前のことです。

設立準備委員会には相馬先生がお声をかけた錚々たる方々がお集りでした。
早稲田大学の副総長、上智大学の先生、私学連盟の会長、女子医師会の会長さんなどなど。
私は父の代理として、そこへぽんと、行きました。

準備委員会で、私は話を聞いていて「事務所がないからどうしようという話になっているの」と公衆電話から父に伝えました。父は「うちの離れを使ったら如何?」といとも簡単に。
加えて「電話番くらいうちの娘にさせます」とも。

平町にて(1980年)。左から二人目は「幼い難民を考える会」いいぎりゆきさん、右へ相馬会長、柳瀬眞さん、房子さん

その一声で事務所が自宅の離れと決まり、私は電話番という体制でスタートしたのですが。
市民団体だから普通は小さく産んで少しずつ大きくするのかなと想像していたのですけれど、事務局をここにおきましたという最初の日から、マスコミをはじめ、難民キャンプや東京の事務局で、ボランティアしたいという大勢の方々、募金をしたいという皆さん、難民本人たちも次々と来会され、本当にどうなっちゃうのかなと思った。
その交通整理を一人でしなくてはならなかったわけです。

「房子さんお願いね、お金集めてね。これやってね、あれやってね」

会には「難民を助ける会の趣旨」と簡単に書かれたものはあったけれど、それだけ。
なにをどうやって進めるか、具体的に何をするかなどはまったく、何もかも前例があるわけでも、誰が教えてくれるわけでもない。
難民キャンプの視察にまず行こうから始まって、あれもやろう、これもやろうとどんどん話が膨らみました。
でも空手で行くわけにはいかないからどうしようなど。

そして「決まったから房子さんお願いね、お金集めてね。これやってね、あれやってね」とお歴々がおっしゃってくるのです。
当時その中でほんの小娘だった私は「ははーー」としかいいようがなくて。今もその場面は鮮明に思い出すことができます。

40年が経って、客観的に見られるようになって振り返ると、私が何とかやってこられたのは、「この人はこれをやってくれるんじゃないかな」というカンが働いたことだと思います。
みなさん何か協力したくてしたくていらっしゃる。
その方々に「これを」「あれを」とお願いすると喜々として取り組んでいただけました。

とにかくカンだけで乗り切ってきた、と今改めて思います。
そういう不思議な縁が結ばれて。
大変だったけれど最初から大風呂敷が広がったことで、今の難民を助ける会(AAR)の原型ができたのだと思えます。

自己満足?から確信へ

最初は巻き込まれる形でしたから、父もまあせいぜい2、3年で落ち着くだろうという見通しでいました。
多くの方々がわーっていっぱい来られたって、もうそれは来るものはくるのだから、自分がお役に立てればうれしいという気持ちは正直にありました。
でもその一方で、自己満足ではないのかしらといつも自分に問いかけていました。
そんな思いもありながらも電話はと切れることなくかかり、受話器を置くとかかる、受話器を置くとかかるが一日中、毎日。受話器をはずしておかないと一息つくこともできないくらいでした。

こんなことを続けて1年目くらいに「自分は本物だ」と思える時がありました。

この本に登場される看護師の宇野いづみさんも「なぜ柳瀬さんは初対面の私を信頼して、その日のうちに海外に行ってもいいって決めたのか」とおっしゃっているように、私は少し話をしているとわかるんです。
「あ、この人大丈夫」って。
宇野さん一人しか希望していなかったわけではなく、宇野さんの前には何人かお断りしているんです。
他にもこの人とこの人を組み合わせたら1+1=2じゃなくって、もっと絶対いい反応を起こしてくれるとか、そういう人から感じる力がどこか与えられていたのでしょう。

AさんとBさん結び付けることで物事が動く喜びを体験して、これに自分で気が付いて「あ、自分はお金儲けしようとしているのではないんだ。この人たちを利用して金儲けしようとしているのではないんだ」と確信したんです。
その時、自分の働く場所はここで、他人に何といわれようと自分は偽物ではないと思えたんです。

「1人1円で1億1千万円」のキャッチフレーズで

個人からの募金

当時は今のように、いろいろな市民団体があったわけではありません。
ボートピープルが海の上をボートで漂っているニュースの映像は、日本人が初めて目に見える形でインドシナ難民の存在を知るきっかけになりました。
1970年代後半はちょうどタイミング的に戦後30年当時50代の人々が自分たちも苦労して、ようやく子供たちを育て、ちょっとほっとした頃でした。
そこに「え、こんなことが海で起きているの!」と見せつけられ、みな心を痛めていたのでしょう。

難民支援のための活動を呼びかけている団体は赤十字、政治・宗教団体以外は、助ける会だけだったので多くの支援が集まりました。
「一人1円寄付すれば、日本の人口1億1千万人だから、1億1千万円の寄付になる」をキャッチフレーズに募金活動を始めました。

募金はほとんどが個人からのものでした。それぞれお小遣いから多くても10万円までのご寄付です。大きな企業や団体からというわけではないのです。

1980年にバンコクで日本奉仕センター(現・NPO法人日本国際ボランティアセンター)が設立した時には外務省から相談を受け初動の活動資金として2000万円を応援し活動に協力し合いました。

この頃のお手紙をみると「相馬さん、よくこの会を作ってくれました」という褒め言葉がいっぱい。
「難民の人たちがかわいそうで、見ていられなかった。
ほんとうに良い会を作ってくれた」というのがとても多かったことを記憶しています。
戦後の自分を重ね合わせていたのだと思います。
今の募金の感覚とはかなり違ったのだと思います。

事務所移転

離れの事務所は9年間続きましたが、88年頃、下目黒へ越しました。その後、目黒駅の山手線のすぐ外側のマンション雅叙園、そして現在の目黒と移りました。

ボランティアの方も一緒に移動してきてくださるので。
目黒からあまり離れないようにと。
その後も助ける会はおおよそ10年ごとに転機を迎えて階段を昇ってきたと今思います。

10年ずつが積み重なって

10年後

1990年には郵政省で国際ボランティア貯金制度が実施されました。
この貯金は大ヒットし加入者が受け取る利子の一部を寄付し、それが民間の海外援助事業に充てられる仕組みです。
当会も助成金を申請し寄付金の配分をいただきました。

申請をするとそれまでは例えば、300万しかできなかった活動が、同額をいただけて600万円の事業ができるしくみができて、とってもありがたかった。
ところがそれは、後払い。
ですので600万ないと事業ができないのに、あるのは300万。
申請書は600万でやっているから支払い後回しできるところはしてもらうお願いに回って。それはもう自転車操業。
それをとにかくこなしました。
きちんと返せばまた次につながる。
信用ができて今度はつけ払いができるようになってくるんです。

そしてその2年後の1992年には姉妹団体として「社会福祉法人さぽうと21」を設立しました。
社会福祉法人の領収証はご寄付くださった方の税制面での優遇措置があるのです。
もちろん任意団体ではなく信用度が増し、少しでも募金がしやすいようにと考えました。
日本のODA予算の無償資金の内の一部も使えるようなり、活動も活発化しました。

20年後

2000年には難民を助ける会はNPO法人となりました。
それまでは任意団体でした。

その年、ジャパン・プラットフォームが設立されました。
ジャパン・プラットフォームは、日本のNGO、経済界、政府(外務省)がパートナーとなり、小さなNGOでも大きな取り組みができるように作られた組織です。
これに助ける会も賛同し加わりました。
この枠組ができて、経済界などからもお金を集めることができるようなしくみができてきたのです。

個人に募金をお願いするのとは別に、書類を作るという技術的な力が必要とされるようになりました。
事務局長の堀江良彰さんは大変力を発揮し事務局のメンバーと共に協力して、公的資金をどうやっていただくか工夫し、その報告に知恵を絞って書類を作るようになりました。
その頃から予算が増えていくようになりました。

そして30年後

30年目になった2008年総会で、理事長を長有紀枝さんにバトンタッチしました。
会の活動が上向きになっていて、次年度の大きな予算収入の計画もあり、全部準備が整った時期で、よいタイミングでよい人に渡せました。
これも縁、不思議に人に恵まれています。

2003年には認定NPO法人の認定を受けて、寄付する人が税金で控除を受けられるようになりました。

続けてこられた秘訣

続けられたのはやはり人が好き。
魅せられる方たちが本当にたくさんいらっしゃるの。
インドシナ難民の方たちは、あんまり素晴らしくて私、コンプレックスをいだきました。
出会う人は人間的に素晴らしくて。
どの人にあっても、本当に尊敬できる。
私が尊敬できるというのは、知力・体力・精神力を備えているということ。

難民支援は尊敬から入っています。
日本に逃れてきた難民の方々が一番望んでいたのは、その子弟が自由に学べる環境でした。
本人も「学びたい」と切望していました。
だったらそれを応援しようと。
どのような方法で、何を学ぶのが一番適しているのか勉強したら生かせるのだろうか。
祖国の学校ではなにを勉強したのか。
理数系なら学ぶことができるのか。
そのような人々に出会ったことが私の活動の継続に繋がっています。

政治と宗教

政治・思想・宗教に偏らない

「政治・思想・宗教に偏らない」を信条にしていますが、実際は偏っているんです。
〝中立〟はどことも付き合わないという場合がありますが、助ける会は全部付き合おうと、努力しています。

例えば1992年頃にカンボジアがようやくみなキャンプから戻ってきて、地雷の問題が起きるか起きないかの頃。
「学校を作ろう」ということになりました。
今ならお金さえあれば建築会社に頼めばできてしまうけれど、その時代は何も全く整っていませんでした。
まずはやっとじゃりを準備する。
すると次の日には盗まれて全部なくなっている。
今度はセメントを仕入れた。
それも全部盗まれる。
だったらそれを入れる倉庫を作る。
それもカギをこじ開けて盗まれる。
しょうがないから周りにガードマンを置く……。
じゃりを守るためにガードマン置くって、変でしょう。
ともあれそれで学校ができました。

そしたら贈呈式に偉い人が来てお祝いの長ーいスピーチをしてる。
何しゃべってるの?と聞いたら「僕の後ろにはAARがある。だから僕に投票してくれ」っていっていると。
日本からこんな偉い人(私のこと?)が来てるから、と長々とやっていたんです。
つまり一方に加担してしまっていたのね。
だったら今度、あの人と反対派の方の学校つくろうと、そちらにもつくるなどと、なんとなく、バランスをとってやっています。

支援する人受ける人

ボランティアは自分のため

ボランティアのスタートは人それぞれでしょうけれど、自分ができることで何か他人(ひと)の役にたちたいと思っている人が多いのではないでしょうか。
かわいそうだから何かしてあげようと思って活動に参加して下さってもすぐに気が付くの、全部自分が学ぶことばかりだと。

グエンティ・ジャンさんという女性がいます。
現在も二子玉川でベトナム料理のレストランをやっていらっしゃいます。
彼女は40歳で日本に来ました。
1987、8年くらだったと思います。
ご主人は南ベトナムで憲兵をやっていたので、逃げないと命が危ない立場の人でした。
祖国脱出に何度か失敗したのだけれど、何度目かでうまくいき、先にお子さんと日本に来られていました。
ジャンさんは数年後に日本に来られたのです。

助ける会の日本語教室の先生と「有名です」「有名ではありません」の言葉を学習していたら、自分は「お料理を作るので有名だ」と言い張るのです。
そこで作っていただいたお料理はとても美味しくて、いつか、お料理の仕事をしてもらおうではないかということで、彼女1人に5人ボランティアをつけたんです。
まず日本語の勉強、日本のレストランを一緒に食べ歩く人、中華街などで材料が仕入れられるか調査する人、毎日事務所で5、6人分の昼食を作っていただき、これは美味しい、甘すぎるなどと評価し、いろいろな方のおかげで、また、出資して下さる方もいて、二子玉川にGiang’s(ジャンズ)を出すことができたのです。

このお店を婦人雑誌やテレビ局も扱ってくれて、人気が出て、なんと行列ができるベトナム料理店になったのです。
ジャンさんの料理は日本にあるほかのベトナム料理とはくらべものにならないほどおいしい。
25年以上続いていて今も人気店として繁盛しています。

1人を集中的に

やる気のある人、努力する人を集中的に応援する。
自立できるようにサポートする。
というふうなことでずっとやってきました。

支援しましょうという時、全員に公平にはできません。
資金が限られているから全員に分けたら一人当たりにするとなくなっちゃうでしょう。
だから、やる気のある人を応援する。といった支援ができるのは役所ではない組織の強みです。
会の立ち上げの時に偉い人たちがいろいろ考えていて、私はそこを大切に継続してきました。
あと少しで完成する人を応援する。
実力がある人を少しでも早く一人前にして、その方々に後輩を引き上げていただきたい、という考え方でした。

現在は、さぽうと21では実情を踏まえながら支援の対象者を決定しています。

おつきあいは今も続く

みなさん、何かの折に、思い出したように連絡してくださいます。

2019年11月17日に40年目の記念の同窓会をしましょうと企画しています。
最初の頃からこれまで、AARとさぽうと21にどんな形でもかかわった人に声をかけています。
もちろん元難民の方々も。
海外で活躍された方々も、ご支援を継続して下さっておられる方も大集合してほしいです。

私は偶然そこにいるキーパーソンの一人です。
40年だとまだ個人個人の消息がつかめるし、私がいれば古くからの人も懐かしがって来てくれる。
誰も知らない人ばかりだと寂しくて足が遠のきますものね。
40周年の今だからこそ大同窓会ができると思ったのです。
卒業生が母校に寄付するみたいに、ひとり立ちして寄付をしてくれる人も何人もいます。
集まることでまた思い出してもらって応援してね、という意味もあります。

これもそういう人間の不思議な縁。
40年続けてきたからこそできること。
一つの節目かなと思います。

ボランティアのみなさんと

20年、30年以上の方も結構いらっしゃいます。
まだスタッフが少ないときはよく相談しながらできたのだけれど、絵本『地雷ではなく花をください』を出版した頃からはあまりにも忙しくなってしまって、一人ひとりとコミュニケーションとることが難しくなってきてしまったんです。
でも、そうすると今度ボランティアの方の中で中心になって動いてくれる人が出てくる。
もう「おねがーーーい」って頼んじゃう。
一対一も大事だけれど、信用していい人がいいタイミングで出てくる。
これも人の縁です。

皆さん、自分が有名になりたいということからは縁遠い方々です。
人のためになりたい。
そのお手伝いをしたいという方々ばかり。
そしてなにより楽しいから来てる。

例えば事務局にボランティアに来ていると、現場から帰国した人が話をしてくれることで世界につながる実感が持てることがあります。
現場を経験した人たちから新聞・テレビでわからないことをいろいろ聞けて、ただ作業するだけでなくって、現実社会に触れることができる。
それが魅力なんです。

皆家族での食卓の話題がワイドショーの芸能ニュースではなく、国際情勢の話ができるって楽しみにしているということを、多くのボランティアの皆さんから聞きます。

常駐のボランティアも

90年代の始めころ、週1、2回のボランティアだけでは、話が繋がらなくて困ることが多くなりました。
90年に国際ボランティア貯金ができて、91年に旧ユーゴスラビアへの支援や地雷問題の取り組みを始めたんです「これはやっぱり毎日来てくださる方を雇用しないとだめね」という声がボランティアの方々から上がってきて、ペイドのボランティアもお願いするようになりました。

募金を集める

波をつくりだす

募金はやはり個人の方々の応援からです。
それには、一人ひとりと親しくなって、よい関係を続けていくことにつきます。
「母が応援していました」といってお嬢さんが続けてくださる方もいらっしゃいます。
これも不思議な縁。

募金というのは維持するのが大変です。
40年前、会をつくるときにはものすごいエネルギーが働いていて募金もたくさんしていただけます。
ところが続けていくうちに熱が冷めてくるんです。
そうなるとまったく募金が集まらなくなってしまう。
ところが活動は充実して、どんどんお金が必要になってくるんです。
海外の活動現場で必要なお金だけでなくって、事務局の運営の固定費がいつも出ていく。

どうやって続けていくか、そういう難しさを毎日克服してきやってきました。
波をつくりだすということ。
なにか注目されることをしないとみんな飽きちゃって、活動がしぼんでしまう。
これは常に与えられた宿題です。

今でも、こういうことをしたら皆さんに賛同していただけるのではないかしらとか、ああいうことをしたら面白いという発想が浮かんできます。
だからあまり苦にはなりませんでした。
現在助ける会の活動費は国や国連からなどの公的資金が4分の3ありますが、4分の1は個人からの寄付なんです。

長く応援してもらう秘訣

やはり一番大切なのは、報告。
どこにどのように使われているかわからないというのはいけないですから報告はひたすら続けてきています。

お金は何かシステムで集めようと思っても、集まりっこありません。
とにかくよい報告を続けることが必要です。

私自身よく海外に行っていた頃には、お礼のハガキを海外からお送りして喜んでいただきました。
1回に何百通と。
本当に現地に行っているんだということが伝わるし、見たことない切手がはってある外国からのハガキが届くと嬉しいでしょう。
そんなことを工夫してやっていました。
これは相馬先生から毎年スイスのきれいな絵ハガキを頂いたことが発想のもとです。
そして現在は折あるごとに、助ける会の海外事務所もお礼絵ハガキを心掛けているようです。

絵本『地雷ではなく花をください』

「対人地雷禁止運動」への参加

対人地雷の問題は、92年パリ和平後のカンボジア難民帰還からから欧米では問題になり始めました。

AARのプノンペン事務所からは、「障がい者(地雷の被害者を含む)自立支援」のプロジェクトを行っているのに、その根源を問題とする「対人地雷禁止の運動」にAARは賛同しなくてよいのか?という意見が何度も寄せられました。
東京事務所はその当時、地雷は国境管理の問題であり、いわば国家の軍事問題に対し当会は関わるべきではない、という考えを共有していました。
でも調べていくうちに、地雷が国境だけではなく、何処に埋められたか埋まっているかもわからず、個人の敷地の境にも使用されており、その結果一般の人、子どもも大人にも被害が大きく広がっていることがわかりました。

その悲惨さを日本でも理解していただき広めようかと考えたときに、一時的な運動だけで終わってはならない、継続が必要。
賛同を得、しかもそれが被害者の支援や、廃絶のための啓発や募金に繋がる方法はと知恵を絞り、「絵本」に至りました。

「そうだそうだ、あのサニーちゃんを使えばいいかな」って思いついたんです。
主人公のうさぎのサニーちゃんは、その以前からAARのマスコットだったのだけれど、会としてうまく利用できていなかったんです。
ここであの子に活躍してもらおうと思いついたんです。

早速、サニーをデザインして下さった画家の葉祥明さんに電話したら外国へ行かれていて不在でした。
では、先に文章を書いてそれから絵を描いていただけばよいとスタートしました。
絵本のプランを会議で話した時は、女性は賛成だったのだけれど、男性は皆反対。
「絵本なんかで、募金が作れるか」。「絵本を書いたって売れるもんか」。という状況。
その中で私だけ、売れる売れるっていっていたの。

やはり、お母さんやこどもたちが理解してくれなくっちゃどうにもならないと思っていたんです。
お母さんたち女性を巻き込まないと、という思いがあったんです。

葉さんはスイスにいっていて、ニュースで地雷のことを耳にしていました。
「地雷って大変なんだね」とすでに知識をお持ちでした。
葉さんは「これまで僕はきれいなもの、美しいものしか描いてこなかった。怖い絵は描いたことがない。かわいそうな絵もかいたことがない。だけれどこれで初めて描く」と覚悟を持って引き受けてくださいました。
そして「僕が1日なまけると何人もが犠牲になるんだね」といって何枚もの絵を一月で書いてくださいました。
次々と「ここまで描けた」って見せてくださいました。
葉さんも地雷廃絶の力になるんだと張り切っておられました。

葉さんは1970年代のメルヘン絵本で誰もが知る人気絵本作家でしたけれど、この『地雷ではなく花をください』のシリーズで社会派絵本作家として甦ったっておっしゃっています。

葉さんとの出会い

絵本をお願いする5年くらい前、新聞で助ける会の記事をお読みになって電話をくださったのです。
「私は北鎌倉に小さな美術館を持っています。来るている人は環境や難民、平和に関心を持っている人が多いので、難民を助ける会のパンフレット置きませんか?」と。
次の日曜日に美術館にいらっしゃるということだったので、早速葉祥明美術館に伺ったんです。
それからのお付き合いです。
そういう人の出会いによって成り立っています。

大変だった版元探し

大手の出版社に話を持って行ったのですが、なかなか引き受け手がなくて。
絵本は売れないって。
結局、絵本出版の実績のなかった自由国民社に持ち込んで編集長の深川章さんに企画をすすめていただいたのですが、少ない部数で提案されたんです。
そこで私は「2万部作ってください。自分で背負って売りに行く!」と啖呵を切って。
結局1万部からのスタートも不満でした。
でもね、本音は心配で、勿論売れると信じてはいても、眠っていて夢の中でグランドピアノの上に本が積み重なっていて、自分がピアノの下で寝ていて、べしゃっと押し潰される光景を何度も見たの。
それだけ重圧がかかってたんでしょうね。
吹浦(夫)は自腹を切ると覚悟していたようですが。

でもそれがひと月しないうちに1万部増刷になったんです。
そしてすぐに増刷そして増刷と重なって今ではシリーズ合計62万部になっています。
この絵本の収益は全てすべて難民を助ける会が責任をもって地雷問題解決のために使用しています。
というそのために出版したものですから、多くのみなさまの賛同を頂けました。
読者の方々からの反響もとても大きかったです。
ファンレターへのお礼も、量が多すぎてお返事できる状況ではありませんでした。
多分1%くらいしかできていないんです。

メディアへの露出

深川編集長が見本を作ってくれて、それを持って記者クラブを回ったんです。
製本前のパンフレットのような状態のものでしたから、記者の皆さんもあまり反応は良いとは言えませんでした。
でも朝日新聞社会部の若い女性記者(大久保真紀さん)が「あ、いいじゃない!」って響いてくださって。夏休みに社会面の真ん中に「絵本1冊分、10平方メートルの安全」と大きく載せてくれたんです。
そこから火がついて取材も増え、いろいろなところで取り上げて頂きました。

メディアの協力なくしては、このようなヒットにはつながらなかったことでしょう。
本当にありがたかったです。

相馬雪香先生の名前で英語の文章もつけしたし、黒柳徹子さんが文章を寄せてくださったり、いろいろな方が一冊の本にかかわりました。
このことで信頼される本ができたんです。

原作文を書いた時

原作の文章はすらっといきました。思いがあふれていたのだと思います。
今、納得がいっていないことが一つだけあるんです。
専門家の「市民社会が地雷廃絶に向けてどう動いたか」という分析には『地雷ではなく花をください』の影響について触れているものがないんです。
学者さんは社会運動的によって広まったものを認めてくれない。

日本社会に対しての絵本の影響力は私はとても大きかったと思っています。
あれがなかったら、国民運動には広がらなかったでしょう。
日本の地雷条約の加盟まで(オタワ条約)押し上げることはできなかった。

コラボレーション

ノーベル平和賞受賞

1977年に、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)と事務局長ジョディ・ウィリアムさんがノーベル平和賞を共同受賞しました。

難民を助ける会が牽引していた日本の地雷禁止キャンペーン(JCBL)は地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の支部の一つです。

とても誇らしいことでした。
事務局長の長さんには、ノーベル平和賞の授賞式に「行きなさい行きなさい。なにをおいても」と送り出しました。

地雷のキャンペーンの活動は、受賞までは短い期間でしたし、本部は米国の小さな一室でした。
ここからインターネットで世界中がつながった。
インターネットの発達により世界が大きく変わりました。
マザーテレサの活動とは全く違うアナログではない、異次元の新しい時代のスタートを実感しました。

冬季オリンピック長野大会

1998年の冬季オリンピック長野大会では、開会式の最終聖火ランナーに地雷廃絶をアピールするクリス・ムーンさんが登場しました。

長野オリンピックは演出家の浅利慶太さんが総合プロデュースを担当されていました。
浅利さんとはもともと知り合いで、「最終聖火ランナーに何方か?」と相談があり、クリスさんを思いついて推薦したんです。

浅利さんはすぐにクリスさんに会いその人柄と実績に惚れて、即決。
ところがこの時期はまだ日本政府が対人地雷全面禁止条約に加盟していなかった。
これをクリアしなくてはいけない。ひとつひとつ。

長野の組織委員会の人々は「なぜ日本のオリンピックに外国人が?」「障がい者はパラリンピックでしょう。」と冷たい。
けれど浅利さんは、地雷廃絶に賛同し、一矢報いたかった。
何としてでもクリス以外にはいないとおっしゃり、長野のオリンピック開会式に日本から世界に地雷廃絶を訴えると、決意してくださいました。

日本政府は長野オリンピック前年の1997年に地雷禁止条約に署名し、それ以降は組織委員を説得することができました。

開会式はクリスムーンさんありき、の演出で世界中に放映されました。
会場にいましたけれど最終ランナーとして入ってきたときは感激しました。
まさかこのような子ども達に囲まれての演出で入場すると考えてもいませんでした。

YouTubeより。天皇皇后両陛下ご臨席のロイヤルボックスに向け聖火を掲げるクリス・ムーンさん。子供たちのユニフォームは世界の国旗をモチーフにしたもの。解説のマラソン銀メダリストの有森裕子さんは「これで地雷の恐ろしさとか、どういうふうに人間がなっていくのか。っていうのをそれを作った人間がきちっとこの大会で見て欲しいと思います。」とコメントしました。

ダイアナ妃とのかかわり

―ダイアナ妃とも旧ユーゴスラビアに行かれました。
クリスさんはダイアナ元妃を難民を助ける会に紹介くださいました。

クリスは、英国の退役軍人です。
地雷の除去を推進しているヘイロー・トラストという団体で活躍して居ました。
その指導中に地雷の事故に遭い、右手・右足を失いました。
クリスはダイアナ元妃に地雷問題の悲惨さを伝えアンゴラやボスニア・ヘルツェゴビナの地雷原を視察していただきました。
難民を助ける会もご一緒したこともあります。

元妃は世界が地雷問題に目を向けるための大きな役割をなさりました。
そのような矢先の1997年8月、お亡くなりなりました。
「地雷ではなく花をください」の絵本のご縁でダイアナ妃の葬儀に招待されて参列しました。

ダイアナ妃葬儀のプログラム

チャリティコンサート

私が大好きな音楽家にお願いしています。
中村紘子さんは、知り合いの紹介でした。
「ちょうど演奏会を企画しています。これをそのままチャリティコンサートにしましょう」と言ってコンサートに協力してくださいました。

中村紘子さんがチャリティをしてくださったおかげで、会の信用が増しました。
紘子さんは、若いころモスクワ音学院に留学を希望したのですが、ビザの都合で、ニューヨークのジュリアード音楽院でピアノを勉強されました。
そこにはなんとモスクワで師事したかった先生が亡命していたそうです。
「私の師匠は難民よ!」と、助ける会を支えてくださいました。
そういう体験がおありで難民問題には非常に深い理解をお持ちでした。

チャリティーグッズ

六花亭のチョコレートはヴァイオリニストの天満敦子さんが六花亭の小田豊社長を紹介くださったことがきっかけです。
年末には社員の方々が忘年会で集めた募金もお寄せくださっています。
小田さんの芸術を愛され文化に根差した地域作り、会社経営に、私はいつも感動しています。
北海道の貴重なお菓子屋さん。本当に有り難いことです。

人とのおつきあい

超えられない壁にぶつかった時、どうやって解決しようというときに、吹浦の知り合いにも大変助けられています。
不思議ですよね。
誰かと誰かが繋がって、助けていただいている。
一人ひとりが、何より得難い宝です。
とにかく人が大事。

私が30代の時に初めて出会ったメディアの方々とは、家族ぐるみでのお付き合いの方もたくさんできました。
NHKの西村大介さん。その時からずーっとお友達。

朝日新聞の天声人語を書いておられた白井健策さんは忘れがたい恩人、長さんの旧ユーゴでの活動を二日間にわたって書いて下さり、その文章に心映えの美しさがにじみ出ていて、やさしさに触れ泣いてしまいました。
天声人語で泣いてしまうなんて、おかしいでしょう。
勝手に『地雷ではなく花をください』に書評を書いて他の雑誌に寄稿してくださったり。助ける会をいつも応援してくださいました。

サンケイの内藤さん、奥様とああでこうで、この支援者の方とつながって、読売の山田寛さんやNHK、OB大貫康夫さんにはさぽうと21の役員をしていただき、野村正育さんにはいろいろ司会をお願いしたり、ここには書ききれない方々ととご縁ができる。
お互い年を重ねながら信頼できる人同士つながっていきます。
人に恵まれているなと感じています。
現在も新しい名刺が増えていて、孫のような世代の方たちとも親しくさせていただいて、感謝の日々ですよ。

外国人労働者と日本

コンビニや建設工事現場を始め、農水産業の現場などでも、病院や介護関連でも日本の中で外国人の方にどんどん仕事をしてもらわなくてはならないといことはわかると思います。

でもお役所はまずこの国の管理、安全、安心な国が一番の基本で、国を守るという立場が違いますから、その点で一般の人との乖離は大きいと思います。

また普通の人にしても、一般的には日本人の嫌がる仕事だけをしてくれるならいいけれど、そうじゃないのは困るという勝手なことを言っている。
そこは日本人社会がもっと、外国人がライバルになって切磋琢磨するくらいの気持ちになっていってほしいと思います。
日本人がしないしごとだけをしてもらいたい、という方法だけしかないのか、一緒に力になってもらって日本を盛り立てて行こうと考えるのか、理解が進まないうちに受け入れが決まってしまいました。

ウエブサイトや新聞・テレビで報道される外国人の犯罪や失敗する人はほんの一部の人。
多くの人々は受け入れの自治体も企業も一所懸命に努力しています。
日本人も外国人もそれはそれはお互いに良い人間関係をつくっている。
メディアも悪い部分だけをいわないでいい話をたくさん取り上げてくれたらなっておもいます。
良い話をひろめてくれれば見方も変わっていくと思う。
「あ、そういう人たち日本の国でがんばってもらいたいな」って広まっていくといいなと思います。

私の知ってる企業の中に外国人労働者を初めて導入することになったところがあるの。
今、社員は全員がポケトークをもって使い方の研究をしているの。
これなら大丈夫って、迎えようとしている。そんな会社だってあるんです。

根室の漁業の関係者のところにはもう数年前から市の商工会が迎え入れて外国からの人が増えてきています。
ベトナムからの人々ですが、役所はベトナム人のお世話係をきちんと雇用し、難しい時にはその女性が間に入ってくれる。
みんながウェルカムの状況をきちんと整えて、へんな仲介業者にだまされないようにすれば、ほんとうに一所懸命で働きにきます。

こちらがそういう気持ちじゃないと続かないと思う。
受け入れの会社が実習生を「働きもので、賢くていい子。」とほめてくれます。でも「しかも安い。」と。「しかも安い」という気持ちでやっていたらきっとうまくいかなくなる。

自分たちの仕事を奪われるっていうけれど、例えば韓国の例では。
まず韓国人で募集する、次に外国人を募集する。
その手順を国民に向けて広報して、納得してもらうというやり方をしています。

安くしないで賃金は上げて、それで応募してくる日本人が増えればいいじゃない。
こんないい企業があるよ、取り組みがあるよ、ということがわかればうまくやれると思います。

これからの助ける会、さぽうと21

二つの団体は、「人道支援」という共通の目的や使命は変わりません。
しかし、活動現場が違います。
AARは海外支援であり、さぽうと21は日本国内での支援活動です。
ですから、関わる人に求められる資質、技術、能力なども おのずから違っています。
もちろん、大震災や災害支援を一緒にやるということもありましたし、これからもあるかもしれません。

ただ、両者が共に大事にしなくてはいけないことは、「継続は力なり」です。
ご支援くださる方々の理解・共感・信頼あってこそ、今日までやってこれたのです。
これは組織としての有形無形の資産であり、50周年に向けて今後とも、一番大切にしたいことです。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は湯浅さくら。

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