日本で生活する難民の人々に必要なサポートを

難民塾ひまわりで学ぶ子どもたち。1983年。

難民を助ける会・さぽうと21は難民として日本に住む方々にたいし、さまざまな支援を行ってきました。

難民救援奨学金制度

1982年発足。返済義務の無い奨学金。日本定住難民の学生を対象に就学支援を開始。

難民塾/難民子弟塾

1983年7月開始。難民子弟を対象にした教科補完教育。
ボランティアの家庭教師を募り開設を各地に呼びかける。
塾専用の施設があるわけではなく、団地の部屋やボランティア教師が各家庭を訪問したり、自宅を開放したりして開いた。
教師の募集には、教員、学生、主婦など約400人から応募があった。

難民塾「ひまわり」

1983年9月設置。カンボジア、ラオス出身者が多く暮らす横浜市神奈川区の団地に。
国士館国際部職員、中島博行氏の働きかけにより始まった。
中島氏が塾長となり、1985年3月までは国士館大学の協力で国際部の教師たちが派遣され教科指導に携わり、1985年4月からは学生を中心としたボランティアが指導にあたった。1991年12月終了。

難民塾「太陽」(太陽塾)

1986年6月開設。日本語の勉強を行う。
渋谷区代々木のマンションの1室を借りてスタート。
ボランティアの教師と学習者1対1で行うもので、希望者が多く、最大で3室で実施した。
コーディネーターに、細川みちこ、佐藤みなみ、半田銈子さん他が加わる。

難民塾「ベトコン」

987年10月発足。ベトコンは「VIETCOM:ベトナムコンピューター愛好会」の略称。
理工系大学・大学院で学ぶ日本人(吉田敦)と奨学生、コンピュータ企業に就職した元奨学生など、ベトナム難民有志が集まりコンピューターを学ぶ。ベトナム語のワープロも作成した。

後に「クメコン(在日クメール人コンピューター愛好クラブ)」も発足した。

難民日本語スピーチコンテスト

1988年12月初開催、以後毎年開催。「スピーチ大会」に改称して2000年まで継続した。

ゆうあい塾

1990年9月開設。教科の学習や小論文の勉強をしたいという要望に応えて。
JR五反田駅前の一室でボランティアが指導にあたった。

AAR大阪事務所

1991年1月開設。大阪市天満橋で日本語指導も行う(1998年まで)。

社会福祉法人 さぽうと21

1992年3月設立。AARの姉妹団体として国内事業を担う。
奨学金制度から「さぽうと21生活支援金」給付制度に改め、対象者を難民だけでなく日本に定住する外国出身者に広げる。

2000年12月。太陽塾、ゆうあい塾をさぽうと21学習支援室に統合。

坪井一郎・仁子学生支援プログラム

2005年開設。東洋熱工業(株)の創業者と令夫人のご遺志により、主に理系の将来有望な学生を支援。
将来日本や世界各地で活躍が期待される大学生(3年生以上)や大学院生を対象に生活支援金を支給。

日本人・日系人のためのPP(パチンコ・パチスロ)奨学金

2017年開始。日本人・日系人のための奨学金。

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