支援生に寄り添って20年 樋口静子【ボランティア】

2014年さぽうと21研究発表会にて。中央が樋口さん。左が吹浦先生、右が高橋敬子さん。

20数年前、私がまだカウンセリング講座の受講生だった頃、先輩のお誘いを受けて難民を助ける会の相談室(現在のさぽうと21)を訪れました。

その活動内容に感動して、自分の能力も考えず、迷いもなく相談員のお仲間に入れていただきました。
小学校3年生の時終戦を迎えた私は戦争の恐ろしさを身をもって体験していたので、戦争のため、生まれ育った故国を着のみ着のままで、しかも愛する家族が離散してまで他国に逃れなければならなかった難民のみなさんと直接お会いした時、何とかしてこの方々の力になり支えてあげたいという気持ちが固まりました。

 それ以来、毎月の支援金の送金(当時は現金書留)、進学や就職、家庭内のもめ事の相談。
生活がひどく困窮しているにもかかわらず、ほとんどのケースが行政サービスを受けておらず、私達相談員が居住地の福祉事務所を巡り、生活保護費の受給や日本育英会の学費貸与の手続き等に走り回った日々を、今はなつかしく思い出します。

私達が頭を悩まされたのは出身国間の人々の不仲で、夏合宿の部屋割には神経を使いました。
今では考えられないことですが、日本人の難民に対する理解度も極端に低く、日本語の会話には全く問題のない優秀な学生達がいざ就職という時になって、外国人(特に難民)であるという理由だけで希望していた企業の門戸が閉ざされたことは非常に悲しいことでした。

そのため将来を期待していた優秀な頭脳の学生が多数海外に流出するのを、歯ぎしりをしながら見送りました。
その差別が原因かどうか未だにわかりませんが、自ら命を絶った支援生のことは生涯忘れられないケースです。
夏合宿の面談時には、涙をぬぐうためのティッシュペーパーの箱がすぐ空になることも度々でした。

 現在の支援生には親の世代が経験した暗い陰は全くなく、皆それぞれ自分の将来像に向かって賢明に学んでいる姿に深い感動を覚えております。
私の人生の最終楽章でこのような貴重な体験をさせていただけたことには、ただ感謝あるのみです。

樋口 静子(さぽうと21理事)


2014年発刊『社会福祉法人さぽうと21の記録 36年目からの挑戦』コラムより。

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