今お仕事は?
ソパナ:ソフトウェア開発の仕事をしています。
2012年に起業し「JCamST」という会社を経営しています。
2014年にはカンボジアで事務所を開き、人材開発システムの構築も手掛けています。
日本で農業技術を学びカンボジアの発展に貢献できるような人材を育てたいと考えています。
日本とカンボジアを行き来する生活で、先日カンボジアから日本に帰ってきたところです。
カンナ:本業はスーパーのパン屋で販売員をしていて、夜間に店頭に立っています。
午前中は公立小中学校の国際教室の指導協力者をしています。
国際教室は、学校内に設置されている日本語の指導が必要なお子さんのために日本語や各教科を教える教室で、カンボジア人の子どもに日本語を教えています。
他にも警察に通訳として登録していて、事件や事故の事情聴取の通訳をします。
警察に登録すると入国管理局、裁判所などからも要請があり、仕事が増えるようになりました。
また、(公財)かながわ国際交流財団の多文化サポーターとしてカンボジア人の生活相談や子育て支援、通訳サポーターとしても活動しています。
日本にいらしたのは?
ソパナ:1982年1月26日、12歳の時に両親と一緒に神奈川県大和市の「大和定住促進センター」に難民として入りました。
センターには原則3ヵ月間滞在します。
そこで、大人も子どもも日本語を毎日7時間みっちり勉強します。
9月には両親の仕事が見つかって社宅に住むことになり、中学1年生からスタートしました。
カンナ:私は1980年4月。
ソパナよりも2年早く「大和定住促進センター」に入所しました。
その時センターはできたばかりで第2期、カンボジア難民としては第1期でした。
当時9歳で祖母、叔母、叔父ら親戚15人という大家族だったので、3ヵ月センターに滞在した後は全員を受け入れてくれる鳥取県の縫製工場に移動して生活しました。
当時鳥取は農村で、結婚などで外国人が定住するには困難な面があることに気がつき、2年後に神奈川へ戻り、叔母たちは職業安定所を通じて縫製業に携わりました。
その間、センターには人が増え体制も整っていたので驚いたことを覚えています。
1980年、82年頃はカンボジアはどんな様子だったのでしょうか。
ソパナ:1982年は1979年にポル・ポト政権が倒されヘン・サムリン政権に変わり混乱は収まってはいましたが、食料や生活用品は不足していてベトナムや他の国からの支援物資を政府が民間に配布していました。
お金もなく、金や米がお金の代わりで交換したり物々交換したりして必要なものを調達していました。
カンナ:ポル・ポト政権が終わって「よし、新しい国だ」と希望が持てる状況ではまったくありませんでした。
散り散りになった親族を探したり、住む家を探したり。
ソパナ:ポル・ポト政権は国民を一律に農業に従事させるような統治を行ったので、プノンペン市内に住んでいる人、商売をやっている人たちは強制的に都会から地方へ移動させられ、田畑の作業労働に従事することになりました。
ポル・ポト政権は知識階層の人たちからの抵抗を恐れ中学生以上で学識のある人、先生やビジネスに携わっている人などを大勢殺害しました。
なにかが“できる”というと殺されるので、皆嘘をついて学校へ行っていないふりをしたり、貧乏な商売をやっているふりをしたり、タクシー運転手と偽ったり、できてもできないふりをしていました。
カンナ:ポル・ポト政権が終わって自分の家に帰れることになっても、土地や家の権利は無効になっていて、自分が所有していた家も先に他人に住まわれてしまっていたら早い者勝ちで他を探さなければなりませんでした。
倉庫に残っていた米、塩などを盗んでおかゆをたいたりお菓子を売ったりというところから始めるような状態でした。
カンボジアからどのように日本へいらしたのでしょうか
カンナ:漁業、農業、販売業をする人も見られましたが、落ち着いて生活できる状態ではなく、海外に行ける人、“つて”のある人はガッと逃げるように出国しました。
私の場合は、母方の叔母が日本人の戦場カメラマン馬渕直城さんと結婚していて、カンボジアの内戦が激しくなり国外に出ることができなくなるギリギリの時期に出国することができて日本に在住していました。
その叔母がブローカーを使って私たち親戚を探し出し日本へ連れて来てくれたのです。
私は両親を内戦で亡くし親戚とは離れた場所で他人に世話になって暮らしていましたが、祖母が人づてに居所を見つけて迎えにきてくれました。
祖母はプノンペンでカフェを営んでいて、コーヒーを出したり雑貨を売ったりしていた人で、私は5歳の時に会ったきりで顔は覚えていませんでした。
状況がつかめないままでしたが、このまま他人にお世話になるよりも肉親に会えればとついて行き親戚と合流できたのです。
ソパナ:1979年にポル・ポト政権が崩壊すると、アメリカのラジオニュースでタイ国境に難民キャンプのような避難場所「サイト2」が設置されているとの案内が放送されました。
情報を早くキャッチできた人は皆そこを目指しました。
国立銀行の銀行マンだった父と母と私の家族3人も「サイト2」に移動しました。
その後1年に満たない頃、タイ国境に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)とタイ政府によって、第三国で定住を希望するカンボジア難民が一時滞在するカオイダンキャンプが設けられたのですが、82年はその場所も飽和状態で簡単に入ることはできませんでした。
そこに行きさえすれば受け入れてもらえるという情報はあったのですが、国境近くはポル・ポト軍やベトナム軍が監視していて、見つかれば撃ち殺される可能性があるし、国境を超えるとタイ軍に不法入国で殺される場合もあります。
道中、虎などの動物に遭遇する危険もありました。
私の場合は、日本に留学していて内戦でカンボジアに戻れなくなっていた叔父が手引きしてくれました。
彼が日本のNGO団体CRY(幼い難民を考える会)の理事長と知り合いで、その方を経由してブローカーが両親と私の3人を探して「サイト2」に来てくれたのです。
ブローカーに対する信頼も20、30%程度しか持てず、どこかへ連れて行かれてポル・ポトに殺されるかもしれないという不安も強くありました。
でもこのチャンスにかけるしかないと決意し、ブローカーと命がけの移動を共にし、無事カオイダンキャンプに入ることができたのです。
キャンプに入ると、希望する第三国への出国に向け面接が行われます。
国が受け入れてくれ、保証人がいればその国へ行くことができます。
アメリカ、日本、ヨーロッパ、オーストラリア、中国などいろいろな国から選択できますが、私たち家族は親戚がいる日本を希望しました。
さぽうと21との出会いは?
カンナ:高校2年生の時、ボランティアの日本語教室主催の集まりで知り合ったラオス人の友人に誘われて、(「さぽうと21」の前身である)「難民を助ける会」主催のイベントに参加したのが最初です。
「助ける会」から支援を受けている支援生やカンボジアの人たちが集う運動会などです。
様々な行事が開催されていて、そこから自分の世界が広がっていきました。
お金の面では、高校2年生から奨学金を、大学入学の際には入学金貸付を受けました。
接客が好きで、将来はカンボジアと日本を行き来できたらと考え、東洋大学短期大学の観光学科に入学しました。
大学1年生の時はアルバイトをしながらなんとかやりくりできたのですが、2年生になるとホテル実習などでアルバイトの時間の確保が難しくなってきました。
また観光業界は身長が160cm以上の制限があって、150cmの自分は勉強しても意味がないのではと考えるようになり、中途退学することを決めました。
ソパナ:1992年に中学2年生になった時、知り合いの方から「難民を助ける会」を紹介され高校受験の準備のための家庭教師の方を探していただきました。
引き受けてくださったのは御夫婦で、旦那様は理科・数学の理系科目を、奥様が国語・社会などの文系科目を教えてくださいました。
中学校の担任の先生からは、高校受験は無理だろうと言われて職業訓練校を勧められましたが、自分は普通の高校に行って学びたい、大学にもいけるかもしれない、絶対挑戦したいという強い思いがあり、一生懸命勉強しました。
受験日が近づくと、お二人はほぼ毎日、仕事から帰って土日も勉強を見てくださいました。
甲斐あって一般試験で神奈川県立向の岡工業高校へ合格することができたのです。
忙しい中、自分の時間を削って教えてくださったお二人には心から感謝の気持ちでいっぱいで、御恩を忘れることはありません。
今でもおつきあいを続けていただいています。
担任の先生もすごく喜んでくれました。
「さぽうと21」からは3年間奨学金をいただき、無事修了することができました。
高校では、機械工学と電子工学を学びましたので、電気関係の会社、ソフト会社などでキャリアを積んでいきました。
お二人のなれそめは?
ソパナ:「さぽうと21」の合宿で知り合いました。
彼女の明るさが魅力的でアタックしました。
同じ国の出身というのも心強く感じていました。
カンナ :つきあい自体は5年間と長く、学校の保護者参観に来てもらったりしていました。
短大をやめることになった時に、周りから「結婚しちゃえ」と。
「萩原」というお名前を選ばれた理由を教えてください。
ソパナ:結婚を機に日本に帰化しました。
日本国籍にすると日本で仕事がしやすいからです。
日本名は当て字は認められないので新しく考える必要があります。当時テレビで織田裕二主演の『お金がない!』という連続ドラマがフジテレビ系列で放送されていました。
借金をかかえた主人公が1円を大事にしながら困難な仕事も明るくこなしてチャンスをものにしていくというサクセスストーリーで、自分もがんばってこのようになるぞという目標になりました。
その主人公の名前が萩原健太郎、萩原はそこからとりました。カンナは神奈川県のカナ(!)
カンナ:後付けで花の名前とか!
ソパナ:名前を変えるのは生きるためだと思っていたので、とくに抵抗を感じることはありませんでした。
お子さんは?
カンナ:養子として迎えたカンボジア人の男2人、女2人と結婚18年目に誕生した貴翔の5人です。
上の4人は結婚したり1人暮らしを始めたりなど独立しています。
子どもにはとにかく全身全霊、愛情をたくさん注ぎました。
先日娘が結婚式を挙げました。
一般に、新郎新婦から親への手紙が読まれることがありますが、娘が読んでくれなかったので、自分が手紙を書いて読みました。
皆感動していましたよ。
30年を振り返って思うことは?
ソパナ:カンボジア内戦は1991年「パリ和平協定」の締結により終結しました。
これをうけ1992年に国連の平和維持活動「国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」が設置されました。
事務総長特別代表には日本人の明石康さん(難民を助ける会特別顧問)が就任し、カンボジアの平和構築に向けての動きがスタートしました。
「難民を助ける会」では1993年にカンボジアの子どもたちに文具やおもちゃ等をつめたポシェットを届ける「愛のポシェットをおくる運動」を実施し、私はその第1回のスタッフとしてカンボジアで活動しました。
また、私は「難民を助ける会」の理事をしていることもあり、2011年の東日本大震災では、地震発生後の3月15日には第1陣としてスタッフ2人で現地調査に入りました。
雪の中、カップラーメンを水でふやかして食べるような状態でしたが、電気、水、ガス、食料、衣服など何もない大変な状況の中で何をどうすればよいのか、素早く状況を把握して必要なものを手配する仕事は、自分のカンボジアでの体験が生き、適切に判断・行動することができました。
「さぽうと21」は奨学金などお金の面の支援も助かりますが、人と人をつないでくれる素晴らしい場所です。
私もたくさんのよい出会いをさせていただいたし、次は自分が助けていきたいと思っています。
今カンボジアで起業している会社も、これまでの経験を生かしながらカンボジアと日本のかけはしとなって道を広げていくような仕事をしていきたいと考えています。
カンナ:私も義務教育を受けることができて、「さぽうと21」のイベントをきっかけによい出会いがあり一気に世界が広がって今の私があり、本当に感謝しています。
私はまだカンボジア人が少ない時期に日本の社会に投げ込まれて日本社会に溶け込むための基礎を学んだので、日本の良さもよくわかってよかったと感じています。
カンボジア人の方々の生活支援をしていて今困ってるのは、カンボジア人の方々がカンボジアのコミュニティーの範囲内で生活し、仕事と家庭を往復するばかりで、自分の問題点に気づかずに考えを変えないまま、子どもを産み育てていってしまうことです。
親は子どもに期待しているけれど、子どもは「どうせ親と同じ仕事だったらがんばってもしかたない」という意識で成績も上がらない。
もう一歩踏み出せば日本人と同じように、高校、大学と進んで自分の人生を切り拓いていけるのに、ともどかしく思います。
親はカンボジア語しか話せず、子どもたちは日本語が上達していて、カンボジア語は聞くことはできても話すことは不自由だったりするし、親が勉強を見てやることもなかなか難しい。
そんな環境からもうちょっといけるよ、とひっぱりだしてあげたい。
これからも「自分はカンボジア人なのだ」というアイデンティティーを大切にしながら、日本の社会になじんでいく手助けをして、子どもたちとかかわってきたいと思っています。