「ベトコン」塾でベトナム語のワープロをつくる。 吉田敦【ボランティア】

パソコンに向かっているのが吉田さん(中央)。AARの最初の事務所・柳瀬邸離れの増築した部屋にて。奥が森山ゆりさん。

よしだ・あつし
1963年生まれ。1991年東京工業大学大学院修士課程修了後、特定国立研究開発法人理化学研究所研究員補。1999年、同大学院博士号(理学)取得。113番元素「ニホニウム」を発見した実験グループのメンバー。発見した装置(GARIS)の設計と性能評価は、卒論と修論のテーマ。 現在、同研究所の仁科加速器科学研究センター、産業利用開発チームに勤務。
大学時代、「ベトコン塾」を立ち上げた。

「パソコンに触れるのであれば、それだけで良かった」

AARと出会ったのは1983年ごろです。

東京工業大学在学中にボランティアを始めました。
下宿していた大家さんが柳瀬さんの知り合いでパソコンで名簿管理ができる人を探していて紹介されました。

私は、ほんとうにパソコンの虫で、パソコンに触れるのであれば、それだけで良かったので、「うん」と答えてしまったわけです。

難民支援をやっている団体だということはまったく知りませんでしたし、ボランティアという言葉すら知りませんでした。
とりあえず、パソコンに触れるのであれば、と行ってみました。

当時はちょうど家庭用のコンピューターが出始めたころ。
Windowsも出る前、MS-DOSの時代です。
大学の専攻は原子核物理学でしたが、当時、留年してお金がなく、先輩がやっているパソコンの会社でアルバイトをしていました。
大学ではなくその会社でパソコンの知識や技術を身に付けていました。

AARの事務所に行ってみると、NECのパソコンがありましてね。
私は、パソコンのことしか見えていなかったので、挨拶もそこそこに「ああ、これですか、ちょっと中を見てみます」と触りはじめちゃいまして。
隣に吹浦さんがいて、「何だ、この人は」と言われました(笑)。

最初はいわゆる会員名簿の原型になるもので、ボランティアのみなさんが整理したハガキを見て住所を打ち込み、その後、会報などの発送ラベルを印刷したりできるようなシステムをつくりました。

当時はマウスなんてものはなく、キーボードを押して、何番のキーを押すとメニューが出てきて、という時代です。

その隣の机で、吹浦先生がワープロで会報の原稿などを書いていましたね。
書きながら、「あっくん、飛行機から機関銃でパンパンパンパーンと打たれるときの恐怖感がわかるか?」と脅かされたり、海外派遣組のボランティアたちが話す現場での苦労話を聞いたりしていくなかで、AARがどういう団体なのかを理解していきました。

ベトコン塾誕生

ある日、事務所にいると吹浦さんが来て、「あっちゃん、コンピューターを勉強したい人たちがいるから、何か塾をやってみない?」と軽い感じで言われました。「名前は『ベトコン塾』がいいよ」とか言って。ベトコンは、ベトナム・コンピューターの略で、南ベトナム解放民族戦線を指す「ベトコン(Vi?t C?ng)」ではないです(笑)。
吹浦さんの「まぁ、やってごらん」の一声で始まりました。
当初「ベトコン塾」に来た人たちは、パソコンに関してはまったくの初心者です。
今のように一般家庭にはほとんど普及しておらず、多くの日本人もそうでしたが、パソコンに触ったことがある人は稀でした。

最初はプログラミングを教えてみましたが、「ん?」という感じで、あまりピンと来なかったようです。
今だって、初心者が最初にプログラミングを教えられても分からないわけですから。
では、どうしたら良いのかと、塾生にいろいろ話を聞いていると、難民のみんなが関心を持っていたのが、ワープロの日本語変換機能だったんです。
吹浦さんが会報を作っていたのを見ていましたから。

彼らは、片言の日本語を話すことができるので、それを、ローマ字で打つことはできますよね。
そうすると、ぽんと打つだけで、漢字に変換される。
「これはすごい便利」ということでした。
漢字を勉強して書けるようになるのは非常に大変なことですので、彼らにとっては画期的だったと思います。
ちょうど、一太郎というパソコン用のワープロソフトが普及し始めたころで、それまでは文書の作成にはワープロが使われていましたが、パソコンでもできるようになっていました。
それで、「ベトコン塾」に来た生徒には、最初に日本語入力のタイピングを覚えてもらいました。

そのうち塾生から「ワープロ検定を受けてみたい」という要望もあがってきました。日本語ワープロ検定というのがありますので、それを目標に勉強しようと言って教えていた記憶があります。
検定内容は、時間内に業務用文書などを入力し、体裁を整える課題でした。体裁については指導できたのですが、難しい漢字用語の入力指導については、「ベトコン塾」で教えることはできませんでした。

ベトコン塾に参加していた人の多くは大学生でした。
優秀な方も多くいましたよ。
特に印象に残っているのは、IBMに就職した大学生の兄弟で、トラン・トルエン・カップさんと、トラン・トルエン・トラングさん。
女医さんになったトラン・ゴク・ランさんのお兄さんたちです。

その二人はすでに社会人だったのですが、「ベトコン塾」を応援してくれました。
ほんとうに優秀な方々で、塾長となった私よりもよっぽどコンピューターについて詳しいことを知っていました。
そんな先輩がいたので、塾生たちは「後に続け!」という感じで頑張っていました。
私自身もその兄弟にはすごく影響を受けました。

発足から3年ほどで登録生徒が48名と大所帯に成長し、ボランティアの先生方も会社務めの社会人の方々が5~6名、大変優秀な方たちが集まっていました。

理事の方が企業にパソコンの寄贈を依頼してくれたり、ボランティアの方が個人で寄付してくれたり、いろいろな方が協力してくれました。

私は、「ベトコン塾」の塾長としては、何もやらない、つまり方針を何も立てていませんでした。
まぁ、立てられなかったんですね、まだ学生でしたので。
先生方に、「じゃ、この生徒をお願いします」といって割り振ることぐらいしかできなかったです。
「何を教えたらいいんですか」と聞かれても、「生徒に聞いてください。生徒の興味に従ってお願いします」って、それだけ。
でも皆さんしっかりとやってくださっていました。
私のような学生とは違い、毎日お仕事でお忙しかったにもかかわらず、都合のつく日の夜に数時間ずつ来てくださり、それぞれが3~4年間続けてくださいました。

コンピューター以外にも

パソコンだけじゃなくて、遊びが好きな先生もいらっしゃって、「ベトコン塾」のみんなでスキーに行こうと計画してくださった先生もいました。
『私をスキーに連れてって』という映画が流行り、学生はみんなスキーをやっていた時代です。
でも、塾生は東南アジア出身なので、スキーなんてやったことはないですし、そんな機会もなかったかもしれませんね。
私たちボランティアが自分たちで車を出して、何台かに分かれてみんなで行きました。
私はあまり上手い方ではなかったのですが、教えてあげたりしました。
また、私は山登りが好きで、塾生と山に登ったこともあります。
パソコンだけじゃなく、遊びも一緒にできたのは良い思い出ですね。

塾生とベトナム語のワープロを作成

「ベトコン塾」では、塾生の希望に沿ってやっていましたので、ワープロ検定や大学のレポートの書き方みたいなことを学んでいた方もいますし、中にはすごいことをやった塾生もいるんです。
ホン・ミン・ニュットくんという東京工業大学の院生と、レ・バン・トゥーくんという東京農工大学の学生がベトナム語のワープロを作りました。

今は、パソコンやワープロの表示は、ユニコード体系になり、アラビア語でもミャンマー語でも、画面に出てきてプリンターで印刷できますよね。

でもそれが普及したのはついこの10年ぐらいの話なんです。
それ以前は、ベトナム語で印刷物をつくるには、まずベトナム語専用のフォントを作らなくてはいけませんでした。
当時、日本在住のベトナム人は6千人ほど。
そのベトナム人のために特別なワープロを作ってくれる会社なんてありません。
彼らは、Windows95が発売される以前のMS-DOS上で、ベトナム語-日本語-英語文字の混在表示が可能な簡易ワープロソフトを自作しました。

ベトナム語には、例えば「ア(a)」には「a」「a」「?」の三種類があって、それぞれに6種類の声調がついて、意味が変わります。

ちょっと難しい話になりますが、例えば、aの次に^のキーを押すと、aという文字がグラフィック表示(画像表示)され、それが日本語と英語の文字フォントと混在表示できるのです。従来の日英文字コードと干渉しない(かち合わない)ように、ベトナム文字へのシフトコードを独自に定めたラインエディター(テキストファイルを編集するためのソフトウェアの一種)と、それをプリンターへ印刷するためのフォントエディター(フォントを新たに作成したり、修正したりするためのソフトウェア)の機能も備えた、かなり高度なプログラムです。

しかもこのワープロは、フロッピーディスク1枚で起動できました。
パソコンのハードウエアにまで精通していないと作れません。

二人ともその数年前に「ベトコン塾」で初めてパソコンに触って喜んでいたまったくの初心者だったんです。ですが、彼らはずば抜けて努力家で、トゥーくんは、自分でも独学できるパソコンが欲しくて、ハードなバイトをしながら3カ月間即席ラーメンだけを食べ続けるという辛抱をしてノート型パソコンを買い、ニュットくんは、研究室のパソコンで、みんなが帰ってから夜遅くまで残って勉強していたそうです。

卒業後は、日本の大手電機メーカーに就職されていました。それくらい優秀な方たちがいっぱいいましたね。

私もそのころ、中国語用のワープロというのを東工大の先輩たちとアルバイトで作っていたんですね。
その技術を取り入れて、一緒に議論しながら、完成させました。

「ベトコン塾」というのは、生徒で成り立っていたんじゃないかな。それからボランティアの先生方もやっぱり、コンピューターの仕事をやっていらっしゃる優秀な方たち。そういう人たちがときどき集まって、ワイワイ勉強したり議論したり。AARのほかの業務とはまったく違う世界を作っていました。AARが日本の中にそういう共通の居場所みたいなものを提供していたことは、難民の方々にとって、とてもありがたいことだったと思います。

就職先の理化学研究所がハノイにコンピューターセンターを設立

大学の修士課程を修了し、博士課程を1年で退学して理化学研究所に就職してからも数年の間は続けていました。

「ベトコン塾」って私の人生にとって役に立つことがきっと何もなくて(笑)。
だって専門は原子核物理だし、全然関係ないんです。
就職してから数年後には仕事が忙しくて「ベトコン塾」には来られなくなってしまいました。
でもその後、就職先の理化学研究所としてもベトナムへの学術支援のようなものをすることになりました。
私が「ベトコン塾」をやっていたことは同僚たちも知っていたので、「ベトナムと言えばあっちゃん」という感じで私に白羽の矢が立てられました。

ハノイにある核科学技術研究所(INST)の中にコンピューターセンターをつくったんです。
理化学研究所の偉い方がベトナムに興味を持ってくださり、一緒にNECの会長を訪問し、「ベトコン塾」での経験などを話しつつ、寄付をお願いしました。90年代半ばくらいですね。

当時、理化学研究所に来ていたベトナム人の訪問研究員グエン・ディン・ダンさんがベトナム側とのパイプ役になり、NECからパソコン、富士通からはサーバーやLANなどの寄贈を受け、1997年6月に開所しました。

ベトナムの北部と南部

そのときにお付き合いしたのはベトナム北部の人たちです。
「ベトコン塾」に来ていた難民の方は、みんな南部の方でしたので、ハノイで会った人たちに「日本に来た難民たちとコンピューター塾をやっていたよ」と話しても、「あ、そう」という感じで何となく深い話はできませんでしたね。

95年ごろからベトナム北部の研究者らとお付き合いするようになりましたが、そうすると、「ベトコン塾」時代に付き合っていた南部の人たちと、北部の人たちでは、何というかメンタリティが違う気がしましたね。
北部の人たちって、歴史というか、今まで統治していた自負みたいなものがありました。

原子核の研究所に行っても、研究職の方の中にも「俺は戦っていた」という人たちもいましたし、そのころの話は絶対したくないような方もいらっしゃいました。

また、90年代当時、難民として国を出た方々は帰れるけれども帰りたくないというか、ベトナムを祖国とは思えない感情があったと思います。
今はもうなくなったかと思いますが。

私が「ベトコン塾」をやっていたころ、塾に集っていたベトナム人が運動会などで掲げていたのはベトナム共和国(南ベトナム)の国旗で黄色の地に赤三本でした。

そのころすでにベトナムの国旗は赤地に黄色い星が1つの図柄になっていたのですが、その黄色い国旗を掲げ続けていましたから。

ベトナムは今のベトナムになる前、南北2つの国に分断されていました。第2次世界大戦までは1つの国ではあったのですが、フランスと日本に支配されていました。
戦後、独立をめざして戦いましたが、外国勢力が介入し南北2つの国として独立することになったのです。
北ベトナムは1つのベトナムをあきらめず、南の体制を倒そうと戦争を続けました。
これがベトナム戦争です。

北ベトナムが使用していた旗が右、南ベトナムが使用していた旗が左。

南にも北と共闘して独立をめざす組織がありました。
これが南ベトナム解放民族戦線、通称「ベトコン」です。
ベトナム戦争は北が勝利し、北中心の政治を強制された南の人々が国を脱出し難民となったのです。

研究面での支援

その後、2000年にベトナムに科学雑誌を寄贈する支援も行いました。
当時、ベトナムでは若い物理学者の育成に力を入れていたのですが、財源不足から専門雑誌や図書を購入できず、教育もままならない状況にありました。
科学論文が載っている雑誌は非常に高額なんです。

そこで、日本の研究者に呼びかけ、退任する先生などから雑誌や論文を集め、コンピューターセンターをつくった原子核科学技術研究所(INST)に送りました。

ダンボールで133箱(約3トン)、定価で7千万円相当が集まりました。

危うく廃品になってしまうところだった物をうまく利用し、研究者にとって重要なインフラを整備できた点で意味のある国際貢献になったと思います。

また、理化学研究所にはアジアの大学から学生を招聘し、実験に参加させ自国で博士号を取らせる、という若手研究者育成の国際協力プログラムがあります。私も、ハノイ大学の学生の指導にあたったこともあります。

「ベトコン塾」は、みんなで夢を共有できる時間と場所

「ベトコン塾」を出たからって何か資格を取れたとかそういうことはなく、何も残さなかったかもしれないけれど、かっこいい言葉で言うと、みんなで夢を共有できる場所と時間があったということですね。

パソコンが出始めたころで、みんなちょっと夢を見られるみたいなところがあるじゃないですか。「パソコンって何ができるんだろう。これができるときっと就職にも役に立つだろう」とか。

その夢を持ってみんなが集まり、平日の夜や週末にわいわいパソコンを触って、議論をして、面白かったという記憶がみんなに残っている。
日本にたまたま来た難民の方たちと、たまたまAARに関わったボランティアの方々がそういう想いや時間を共有し、スキーに行ったり山に登ったりした。
そういう場所があったということが、とても意義のあることだったと思います。

そして、やっぱりAARに育ててもらった、「ベトコン塾」に育ててもらったという思いがありますね。

AARでボランティアを始めた当初、塾生たちの過去については「聞いてはいけないのかな」という思いもあり、難民問題には深く立ち入らず、パソコンの虫に徹していたんです。
ただ、「ベトコン塾」の隣でやっていた相談室からは、塾の生徒が自分の日常生活について深刻な相談をしているのが聞こえたりもしました。

でも「ベトコン塾」ではそんな話はまったくせず、楽しい時間を過ごそうとしているように感じられました。

「自分にできることなら協力しよう」と、そういった気持ちでAARに集まっていた「大人のボランティア」の先輩方に感化され、無関心に徹していた学生の私も「自分なりの貢献の仕方」を探すように変化していったのだと思います。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は原田美智子、構成は長井美帆子。

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