タイの難民キャンプ「サイトⅡ」で調査 吉田(渡辺)秀美【ボランティア】

カンボジアのAAR事務所前で。左から吉田(渡辺)秀美さん、柳瀬房子名誉会長、長有紀枝現会長。

よしだ(わたなべ)・ひでみ
1969年生まれ。1996年、埼玉大学大学院政策科学研究科修了。民間企業を経て、1992年から94年までAARカンボジア事務所、東京事務所勤務。FASID、アイ・シー・ネット株式会社を経て、法政大学教員

友人に誘われて日本語教師のボランティア

私が初めてAARを訪れたのは大学4年の1990年でした。
当時、大学に通いながら、日本語教師の資格を取るための勉強をしていました。
同級生が先にAARの太陽塾(難民塾「太陽」)でボランティアをしていて、誘われたのです。

当時AARの事務所は目黒の山手通り沿いにありました。
南新宿の太陽塾では、難民として日本に来ているベトナムの方に日本語を教えるボランティアをしましたが、あまり頻繁に行くことはできず、ほんの数カ月間だったと思います。

タイの難民キャンプ〝サイトⅡ〟で調査

その後、1991年2月中旬に卒業旅行として、バックパッカーで東南アジアに行くとことになり、「何か仕事ありませんか」と事務所を訪ねたら、吹浦さんに「タイに〝サイトⅡ〟という難民キャンプがあり、そこに日本人のボランティアを送る計画があるので、事前の調査をしてこないか」と言われました。

在日カンボジア人協会代表のメアス・チャン・リープさんを紹介していただき、出発前に彼からカンボジアの国内の事情などを伺いました。
バンコクから200キロほど東にアランヤプラテートという町があり、そこの安宿に泊まりながら日帰りで毎日〝サイトⅡ〟に通いました。
メアスさんの知り合のチア・ソティさんという方が同行してくださり、英語とカンボジア語の通訳をしてくださいました。
キャンプは、アジアの田舎でよく目にする木や竹、葉などで作られた掘っ立て小屋が立ち並ぶ田舎の村という印象で、難民の方たちは既に10年以上そこで生活していたので、キャンプ内はとても落ち着いていました。
ただ、家屋が密集していることと、保護されて仕事をすることができないので当然なのですが、大人たちが働いている姿がないという点でほかの村とは違いました。

早稲田大学4年の久保健一さんという方がAARのボランティアとして同じような調査で現地に入っていらして、一緒に調査しました。

彼は読売新聞への就職が決まっていて、調査や取材の手法をいろいろ知っていました。
教育や保健などセクターごとに調査するべき項目をカードにして、例えば学校なら子どもや教員の人数、教えている内容などを根掘り葉掘り聞いて、ひたすらメモをとりました。
帰国後、それをまとめて分厚いファイルで提出しました。
吹浦さんからは、「すごくよく調べてきたね」と言われました。

就職するも辞め、プノンペンへ

大学卒業後はアジア向けの投資会社に就職しました。
ベンチャーキャピタルという業種で、アジアへ投資する日本企業を支援する会社です。

ちょうど90年代は急激にアジアが経済成長していて、円高も進み日本企業が盛んに投資をしていた時期でした。

学生時代は中国や東南アジアをバックパッカーとして旅行するのが好きで、アジアの国々と繋がりのある仕事がしたいと思い、そこに入りました。

就職してからもAARとの関わりは続いていました。

AARが91年8月にサイトⅡへのスタディツアーを主催することになっていて、そのツアーの企画に携わりました。

平日は仕事ですので毎週土曜日に事務所に行き、ツアーには夏休みを利用して参加しました。
AARの理事をされていた小松博史さんなども一緒でした。
そのツアーで夫の敦さん(吉田敦さん)と出会ったんです。

その後、やはり現場に行きたいと会社を辞め、92年の4月から6月までサイトⅡで日本語教師のボランティアとして活動しました。
92年はカンボジアへ難民の帰還が始まった年です。

国連がカンボジア暫定機構(UNTAC)を組織し、初めて日本の自衛隊が海外に派遣されるという年でもありました。
キャンプで活動していましたが、ちょうど難民の帰還が始まっていて、いつまでもここで活動していても、どのみち縮小してしまう。
ここでがんばるよりも、カンボジアに行き、その国づくりや復興での支援をしたいと思うようになりました。

帰国して事務所でその話をしたら、ちょうど吹浦さんや柳瀬さんもいらして、「プノンペンに視察に行ってきた。もう事務所も借りてきたからそっちに行かないか」と言われて、7月にはプノンペンに異動していました。

プノンペンで自立支援活動を立ち上げる

プノンペンへは事務所の立ち上げメンバーとして赴任しました。
そのときいたメンバー2人との3人で活動許可を取るためにカンボジア政府に掛け合ったり、NGOや国際機関とのコネクションづくり、情報収集をやっていました。

それ以前からAARはカンボジアで車いすの配付をしていましたが、配付だけではなく障がいのある方々が自立していけるような支援、職業訓練をやろうということになりました。

当時、内戦直後ではありましたが、プノンペンには政府の運営する障がい者施設もあり、そこへ行って障がいのある方々がどうやって生計を立てているのか、訓練をするならどういった仕事が良いのかといったインタビューをしたり、スタッフの雇用、社会福祉省から借りた施設の修繕、会計・雇用制度の整備などの準備を進めました。
社会福祉省からの許可を取るのに時間を要しましたが、翌年には訓練が始まりました。

新しい事業を立ち上げる仕事はほんとうに充実していました。
一方で、「これで良いのか、良かったのか」という自問がずっとありました。
私は、1年間の社会人経験を経ただけで現場に飛び込んだため、ずいぶんと素人的な仕事をしてしまったように思います。

事業のマネジメントや持続性、効率性、費用対効果はどうだったのかといった反省は尽きませんでした。
また、当時のAARは日本で何かを集めて途上国に送るような活動が多く、
そこに対する違和感もありました。

「愛のポシェット運動」というのがありましたよね。
日本の支援者さんにポシェットを作ってもらい、その中に鉛筆や消しゴム、ノートを詰めて子どもたちに贈る運動です。
まだタイのサイトⅡで活動しているときに、その計画を知らされました。
当時、我々駐在員はお金やモノをばら撒く支援はしたくないという気持ちがすごく強くありました。
モノをあげる支援は、その時は贈った方もいい気持ちになるし、受け取った方も嬉しいかもしれない。
でも、それは結局依存体質を生んでしまいます。
東京に「やりたくありません」と伝えたところ、「じゃあ、あなたたちは関わらなくて良いから」と、日本からボランティアの方々がいらっしゃって、すべて東京側でやってくださいました。

それでも抵抗感はありました。
今になってみると、そうやって日本の皆さまに参加してもらうことがとても重要なことで、そうやってカンボジアや難民問題への注目を集めたり、支援してくださる方を増やしたりしてきたということが理解できます。

今、この年齢になったから理解できますが、20代の若いころは、純粋の現場のことだけを見ているので、その運動にとても違和感を覚えました。
AARの支援とは少し考え方が違うな、という思いも芽生えました。
このとき私たちは既に婚約をしていて、「1年で帰ってくる」というあっちゃんとの約束もあり、帰国しました。

調査研究、大学教員と子育てと

カンボジアから帰国してからは少しの間ですが、週3日くらい事務所に通い、AAR主催のチャリティイベントの企画など東京事務局の仕事をし、その後大学院に進学しました。
カンボジアから帰国した1993年に結婚しましたので、とりあえず海外ではなく国内の大学院にしよう埼玉大学の修士課程に進みました。

大学院在学中に、バングラデシュのグラミン銀行やマイクロファイナンスなど、貧困層に無担保で少額を融資し、収入向上を支援する支援のアプローチに出会い、それをテーマに修士論文を書きました。

96年に修了し、2002年までFASIDという外務省系の財団で研究支援の仕事に就きました。
FASID内にマイクロファイナンスに関する研究会を立ち上げ、ベトナムに調査にも行きました。
6年間勤務し、やれるだけやったという気持ちになり退職。

その数カ月後、開発コンサルタント会社に所属して調査の仕事を請け負ったのとほぼ同時に妊娠がわかりました。
つわりのひどい時も、実家で締め切りに追われてPCとにらめっこしていましたね。

当時ようやくインターネット環境も充実してきて、在宅で仕事ができる時代になっていました。
出産後も、開発コンサルタントの仕事を請け負い、子育てをしながらプロジェクトの調査などを行いました。

そのままコンサルタントの仕事を続けるつもりでしたが、法政大学に移っていた大学院時代の指導教官から「任期付きの教員を探しているからやらないか」と誘われました。
下の娘が生まれて5カ月のとき、2008年から大学の教員になりました。

着任の時期が決まっていたので、入ってからでは絶対に無理だと思い、大学に移る前に出産しました。

大学に移り、娘が保育園に入ったのは5カ月のときです。まだ哺乳瓶でミルクを飲んでくれないので、夜の授業がある日なんかは、出勤前に私があっちゃんの職場の理研まで車で迎えに行き、それから二人で保育園に子どもを迎えに行くんです。車の中で授乳して、あっちゃんに「はいっ」って預けて、保育園のある和光市から法政大学の市ヶ谷キャンパスまで行きました。あのころはすごく大変でしたね。

チャリティ活動の限界を体感

AARでの経験はチャリティ活動の限界を体感した、という意味で勉強になりました。
2011年に、フィールドツアーで教え子の大学生たちとカンボジアに行きました。
その際、AARの職業訓練校にも行きました。
懐かしい現地スタッフもまだ何人かいて嬉しかったのですが、スタッフたちのメンタリティが、自分がいた20年前とほとんど変わっていなかったのです。

「自分たちでやっていくぞ」っていう気概は全く感じられず、支援してもらうことが当たり前になっていて、「いつまで援助頼みでやっていくのだろうか」と感じました。

また、今の大学生は気軽に途上国に行けますよね。
サークル活動やクラウドファンディングでお金を集めてカンボジアに行って学校を建てました、なんて話は今もしょっちゅう耳にします。

そういう話を聞くと、「内戦が終わって30年近く経っているのに、カンボジアは援助という形を通じた交流しかできないままじゃないか」って思います。
内戦後、カンボジアに世界中から大量の援助が入ってしまった弊害の部分なのでしょう。

でも、それは支援に入った側も素人だったわけです。
AARの支援の方針は変わっていったと思いますが、当時は私自身もちゃんと現地の人を育てていくという発想ではやっていませんでした。

カンボジア事務所に赴任してきた民間企業を経験していた方は、現地の優秀な若いスタッフをバンバン厳しく育てていました。

当時は「そんな接し方していいの?」と疑問に思っていましたが、彼はスタッフたちが企業に就職してもちゃんとやっていけるように育てる、という発想でやっていたんです。

当時は反発していましたが今考えると正しいなと思います。

ボランティアで行くと現地の人とは仲良くしようという発想になってしまいます。
大学生ならそれが精一杯であるとは思います。
でも、支援に行く側は、長期的にその国の人を育てたり、制度を整えたりという視点を持っていないと駄目だと思います。
私自身もそれが反省点ですね。

AARを辞めた後は、もっとプロフェッショナルに仕事をしたいと思いました。
大学院や就職した財団で研究したマイクロファイナンスは、外からお金を投入するのではなく現地の人たちが持続可能な活動で生計を維持し、ビジネスとして成り立たせて社会問題を解決する。そこがすごいと思いましたね。

当時のAARの支援とは真逆というか。
AARでの経験が反面教師になっている部分もあります。

その後、コンサルタントやフリーでODAの仕事をしました。
でも、そこしか見ないのもおかしいな、世の中を動かしているのは普通の民間企業だよな、と思い、今はソーシャルビジネスやCSRに関心を持ち、企業活動を通じた貧困削減に関わる研究・活動に取り組んでいます。

今も「頭があがらない」

AARを離れてずいぶん経っていますけれど、ずっと会員として支えているのは、やっぱりAARには頭が上がらないというのがあります。

私がカンボジア駐在から帰国し93年の11月に結婚式をあげたのですが、パーティにはAARの方も当時支援していた難民の方たちも大勢来てくださいました。

代々木でカンボジア難民の方がやっていたレストラン「アンコールワット」からお料理をケイタリングしたり、ボランティアのおばさまたちがお料理やケーキを用意してくれたり。
すべて柳瀬さんが手配してくださったんです。
ほんとうに楽しいパーティになりました。
柳瀬さんや吹浦さんはその後の披露宴にも来てくださって。

いまはAARも組織になったようですけど、立ち上がりのころはなんというかお祭りっぽく楽しめたのかもしれないですね。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は原田美智子、構成は長井美帆子。

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