AARでの日本語教師28年。「夏休みなのに来た、えらい。じゃあ、やろうか」 中山はる子【ボランティア】

太陽塾にて授業中の中山さん(中央)。1999年。

なかやま・はるこ
1960年東京生まれ。大学では中世の能楽書、世阿弥の『花伝書』を研究。1982年に卒業し、電源開発株式会社に入社。その後退職し、日本語教師となる。

一般企業・団体の日本語教師に

日本語教師になったのは、大学卒業後事務をしていた電力系会社が、日本の企業で日本人しかいない環境で。
そういった環境とは違うところで、いろいろな人に出会えたらと思っていたのかもしれません。

父がエンジニアで外国での駐在が多かったんです。
私も夏休みなどは父に会いに行き、海外で過ごしました。
外国の人たちと一緒に働くのが当たり前という父の姿を見たり、話を聞いたりして育ったので、その影響を受けたのでしょう。

では、どんな仕事があるかと探して、日本語教師になったのだと思います。

日本語教師としてのスタートは、企業にやって来る外国人研修生や大学生を教えることでした。

2013年頃まで日本語教師派遣会社に所属して、航空会社や製薬会社、IT系企業で教えていました。

世田谷区の国際交流団体「JCA玉川」にも参加していました。
ここでは、毎週、日本人10人程と、アメリカ、カナダ、ドイツ、ポルトガル、フィリピン、中華人民共和国など世界各地の方10~13人が、日本語と日本の文化を学び、日本人は学習者の国の文化と、やさしい日本語で話すことを学びます。

太陽塾に参加

さぽうと21学習支援室の前身である太陽塾に日本語教師のボランティアとして参加したのは、1991年です。

これまで教えていた方たちは、仕事で日本に来て任期を終えるとそれぞれの国に帰ってしまう人たちでした。
それで、身の程知らずにも、日本にずっといる人に教えてみたいなと思うようになったのです。

そんな時、難民を助ける会を雑誌かテレビのニュースで知って、「こういう団体があるんだな」と興味を持ったのです。

教えはじめた頃の学習者は、ベトナム系の方々でした。ボートピープルとして来日した人の奥様たちで、結婚して呼び寄せられたケースが多かったです。
ご主人たちは日本に10年は住んでいたのではないかしら。
週1回夕方の2時間、ベトナムの女性たちは2、3年教えたでしょうか。
お子さんができたり、仕事が変わったりでおやめになりました。
学習者の中で、一人だけ男性でご自身がボートピープルだった方がいました。

授業を工夫して

テキストは、『新日本語の基礎』(財団法人海外産業人材育成協会編、スリーエーネットワーク刊)を使っていました。
日本語テキストの定番『みんなの日本語』(スリーエーネットワーク編著・刊)の一世代前のテキストです。当時は、『新日本語の基礎』か『日本語初歩』(鈴木忍・川瀬生郎著、国際交流基金日本語国際センター編、凡人社)を使うことが多かったです。

毎回、授業の進め方とポイントをまとめた教案を作って授業にのぞみましたが、なかなか学習は進みませんでした。

仕事場と家を往復する生活からの息抜きの場だったのでしょう。
家庭のことや仕事のこと、国での生活、国の家族のこと、年金や国民健康保険について同国人から聞いた情報などについてよく話していました。
でも、例えば年金を滞納していて払わないと生活保護をもらえないという話が出た時、「私は違うと思うけど」と、やんわり言っても日本人の私が言うことはあまり信じてもらえませんでした。

人間は自分の見たいことを見て、聞きたいことを聞くからなのか、あるいは、彼女達の祖国ベトナムでは噂話や口コミを大切にするからなのか……日本人の話より同郷の人たちの情報を信じる傾向があったと思います。
社会主義の国ですから、政府の言うことより口コミのほうがが重要なのかもしれません。

日本に来ても、やはり日本語が不自由だということもあって、わからない事や問題があっても区役所など行政に相談したとは聞きませんでした。

ミャンマーの方達にもその傾向はあるように感じます。
そんな時は、私が知っている情報は提供して、ご本人の決定を尊重しました。
私から見たらその情報は違っていると思っても、彼女達から見たら正しいと思って決めた訳ですから。

一般企業・団体とAARの違い

ビジネスパーソン向けの教室と太陽塾のギャップはおもしろくて、例えば、ビジネスパーソンのインド系の方に、いなり寿司の作り方を質問されたことがあります。
「ヘルシーだから、インターナショナルスクールに通っている子どものお弁当に作りたい」とのことでした。
学習支援室のみなさんは、いなり寿司は知っていても作り方を聞かれたことはありませんでした。

また別の方に近所の人に柿をもらったけれど食べ方がわからないと聞かれたこともありました。
そんな時、あ、この人には柿を分けてくれる人が近所にいるんだな、とわかると同時に、学習支援室ではそんな話を聞かないな、とはたと気付く。

学習支援室のみなさんは仕事と家のことで忙しいから、近所づきあいをする余裕がないのか、家庭内やコミュニティ内の関係で十分で、近所づきあいは必要ないのか、といろいろ考えます。

あとはやはり難民塾では深刻な話も聞くことがありました。
太陽塾で教えていたベトナム難民の方です。
ボートピープルで、漂流中の話をしてくれました。
舟の上で水も食料もなくなって死人が出て、その死体を食べるしかないという話になりました。
その方は食べなかったけれど、食べた人はいた、という極限の極限の話でした。
この話は、まだ、忘れられません。
死体を食べてしまった人が後で精神的に変になってしまったとも聞きました。

私も深く聞けなかったのですけど、「何が嫌だったの」と1度だけ聞いたことがあります。
その返事は「自由がない」でした。
言葉では理解したけれど、感覚としては「自由がない」が理解できませんでした。
私は、「自由」だと感じることが当たり前で、「自由」の価値がわかっていない。
想像はできるけれど、想像するだけで、どんな締め付けがあるとか、どんな注意をしなければならないのかなどの辛さがわからないです。

「集中学習支援室」で

現在はさぽうと21での毎週末、平日の授業、それに加えて春休みと夏休みには難民など外国につながる小中高生のための「集中学習支援室」でも教えています。
準備などで時間的な拘束はあるといえばありますが、ただできることはやろうと思ってやっています。
できるなら、少しでもできるなら、と思っています。

授業中の中山さん。平日は中学生に教科を教えている

春夏の集中学習支援室は、子どもたちの学習の遅れが気になっていたことが大きいですね。
さぽうと21の学習支援室は基本的に週1回なので、どうしても今学校で勉強していることに対応しなくてはいけません。
苦手分野だけを取り上げて復習することが全くできない。
でも、夏休みや春休みだと時間がある程度あるので、苦手分野もしくは学習しないで来た部分、その学年で学ばなければいけないけれどもきちんと学習できなかった分野などの勉強ができます。
そのお手伝いが少しはできるかと思ったのが理由です。
ちなみにすべてボランティアというわけではなく、春夏の集中学習支援室での授業はお仕事としてやらせていただいてます。

続けてやれているのは、祖母の影響があるかもしれません。
祖母は、明治36年生まれですごくしつけの厳しい人で、何か言い訳をすると、言い訳は恥の上塗り!という人でした。あとは、感謝の念が足りないともよく言われました。
無駄なものは買わないなど、お金をあまり使わないで満足する暮らし方を知っている人でした。
一方で、困っている人には、当たり前に手を差しのべる人でした。
ボランティアをするのは、もしかしたらその影響かもしれません。
難民を助ける会を設立した相馬雪香さんがおっしゃっていた「困った時はお互い様」の精神が、祖母にもあったと母から聞きました。

言葉を信じていない

私は、映画鑑賞が趣味で、特にドキュメンタリーとコメディが好きです。
ミスター・ビーンは大好きで、いつも見て笑っているのです。
ミスター・ビーンはしゃべらないですよね。表情と動作だけで笑いを誘うのが好きなんです。
ドキュメンタリーもそうなのですが、私は基本的に言葉を信じていないのです。
映像が伝える力は大きいと思っています。
映像は無意識の動作を捉え、本人でさえ意識していないような感情を表すことができます。
私には自分の考えていることが、全部はわかっていません。
自分で意識しているのは、考えていることの一部で、意識していない部分のほうが大きいように感じています。
そして言葉で意識していることの全てを表現することはできません。
言葉が表すのは、意識していることの一部です。
言葉は便利な道具ですが、気持ちのやりとりのほうが大事だと思っています。

平等と少数派

私は、小さい時に自分が海外に出て、自分が”少数派”という経験しています。
少数派だから辛い思いをしたということではありませんが、主流と傍流があるんだということは実感しました。
例えば主流と傍流が文化の違いを認め合うことは難しいし、傍流は主流に従わなくてはいけない。
そして自分にも自分たちの言語・文化にも誇りが持てなくなるように感じています。

そしてこの体験はなぜボランティアを続けているのか、とも関連しています。
人間は平等ですが、多様な存在で、取り巻く環境も多様ですよね。
でも、環境については「多様」というより「格差」があると言ったほうが正しいと思うんです。
現実には格差があります。
格差のせいで、本来持っている能力が活かせない子どもがいるのが嫌なんです。

子どもが勉強に向き合えないのは、子どものせいだけではありません。
国を離れ日本に来ることになった大人と子どもが、力をつけ状況を変えられるよう、見ないふりをしないで、できることを少しでもやりたいと思っています。

機会は平等であるべきなのに、自分で選ぶことができない環境によって結果に差が出るのが、嫌なんです。

戦前の日本やカースト制度のような身分制度があるのでしたら、しょうがないと思うかもしれません。
でも、今の日本はそういう国ではありません。
多数派の言う通りにしなくてはならない、従わなくてはいけないではなくて……。
合わせていかなくてはいけない部分はあっても、かといってそれは「従う」のではなくて、平等な立場で「合わせてもいいと思う部分を合わせていく」ということでいいのではないかと。
それは、子どもだけじゃなく大人もです。

活動28年。そして、これから

太陽塾時代から30年余りさぽうと21で日本語指導や学習支援にかかわって来ていて感じるのは、以前よりはサポート体制が変わってきたということです。

以前のベトナムの方々と最近のミャンマーの方々を比べると、行政にせよNGOにせよ、サポート体制が大変手厚くなったのが大きな違いだと感じます。

例えば、20年前は行政や支援団体などが医療通訳をするという時代ではなかったので、自分ひとりでは病院に行けない場合、日本語のわかる同国人に付き添ってもらう必要がありました。
それでもドクターに症状がきちんと伝わらなかったり、通訳の方が個人情報をうっかり漏らしてしまったり、ということがあったようです。
今は、さぽうと21のスタッフにお願いすれば病院への同行も頼めますし、学校へも一緒に行ってもらえます。
医療通訳に対応してくれるNGOや病院もあると聞いています。
ベトナムからの難民を受け入れ、これが必要、あれも必要とわかってきて、支援組織もできてきたし、バックアップのノウハウも蓄積してきたんでしょうね。

祖国を脱出する方法も変わりましたよね。
ベトナムからは何の情報もないままボートで出るしかなかったのが、最近のニュースなどを見ると、今はスマートフォンを持っている難民の人が多く、どの経路がいいか、また、自国の家族と連絡しあって移動をしていますね。
もちろん今もボートでの危険な脱出は後を絶ちませんが。

一方で受け入れ側のとまどいは今も大きいですよね。
難民を客として一時的に受け入れるのか、ともに生活する人として受け入れるのか、移民を受け入れるのか。
まだ日本人は自分たちの課題として話し合っていません。

子どもたちへのメッセージ。「住む国は選べる」

さぽうと21に来ている子どもたちからは影響を受けていますよ。
私も勉強しなきゃ!と思わされます。

中学の英語教科書を何種類か買って、数えられる名詞の複数形の作りかた、不規則動詞の活用などなど勉強し直しました。
私も子どもたちと同じように、まだ勉強中です!

さぽうと21は、私が「できることをやる」場です。
ほかにできることがないので。
子どもたちは、私が怠けないでいられる、楽な方に行くのを止めてくれる存在でしょうか。

さぽうと21に来る子どもたちには「勉強しなさい!」といいたいですが、逆に「高校に入れないから勉強しなさい」とはいいたくありません。

そのような考え方もあることは分かりますが、私自身は、小中学校の勉強は生きる力を身に付けるためだと考えていて、高校入試のための勉強とは考えていません。
一方で、高校を卒業していないと仕事が限定される現実は子どもたちに伝えなければなりませんが、その時も「正社員になるべき」との価値観は押し付けたくありません。

でも、実際にかける言葉は「夏休みなのに来た、えらい。じゃあ、やろうか。今日はこれ」。
それだけです。
先のことを考えないし、言わない。今日やることをやる。昨日できなかったことを復習する。一昨日できなかったことを復習する。
それだけです。

私には、今子どもたちがやっている勉強が何につながるのか、はっきりとしたことは言えません。
それを思うと、子どもたちはよく学校へ行っています。
「えらい。よく行っている」とほめてあげたい。
しかも、学校に加えて学習支援室にも来ています。
夏休みは遊びたいでしょうに、よく来ています。
えらい、と思っています。

子どもたちに伝えたいこと

学習支援室の子どもたちは、自分の出身国ではないところにいます。
将来、自分には選択肢があるとまだわかっていませんが、自分の住む国は選べるんですよ。
それは日本の中学生も同じですが。

どこでどうやって暮らすか、自分で決められるということをもう少し伝えたいけれど……、難しい。
母国に帰るか、日本にいるか、違う国に行くか、自分で考えて自分で決める。
自分で暮らすところは、自分の責任で決めていかなきゃね、と感じながら、子どもたちをみています。

私たちは日本人だから、なんとなく日本にいるのが当たり前だと思っていますが、そんなことないですよね、日本人でもどこにいてもいい。

最近、夏休みに中学生に教えることになり、彼らと話すようになってからそう考えるようになりました。

子どもたちは、自分の意思ではなく親の理由で移動させられました。
1回目は親の理由でしたが、次は自分で選べるということを知ってほしいんです。
人生は、自分で決めなきゃいけないんです。
うまくいかなくても、誰かのせいにしたり、言い訳をしないということを含めて、自分で決める。
ただ、どっちつかずになる危険性があるから、日本以外の場所を逃げ場所として考えてほしくないとは思っています。

ダブルリミテッド

今、一番関心があり、怖いと思っているのは、ダブルリミテッドです。
二カ国語を使っているのだけれど、両方とものレベルがあがっていない状態です。
日常生活の会話には不自由していないから見過ごされているけれど、言語力が育っていないので、学校の勉強がはっきり理解できない、言語をつかって抽象的に考えられない、自分の考え・気持ちも言葉にできない。

これは本人にとっても、日本社会にとってもマイナスだと思います。
考える時には、言葉なしには考えられません。
数学の計算はできても文章題が読めないという問題につながるんです。

言葉が表すのは、意識していることと感情と現実の一部分だけなので、誰かを理解するためには使えないかもしれないけど、自分が考えたり、誰かに説明することは言葉でしかできません。
やはりみんなに身につけてほしいと、ものすごく思います。
今、一番願っていることです。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は渡部洋子。

中山さん(左)と聞き手の渡部さん。土曜日の授業後に。

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