AAR事務所にてインタビュー中の森山さん。2019年5月。
1962年東京生まれ。東京大学教育学部卒業。1986年に国際協力事業団(JICA)に就職。5年の勤務の後、長女の誕生を機に退職。専業主婦の道を選ぶ。夫の仕事の関係でオランダ、オーストラリアに滞在。一男二女の5人家族。愛知県在住。
このお金は、人のために
中高とミッションスクールだったので、ボランティア精神とか、人のために役に立つことをしましょう、という空気は学校の中に流れていました。奉仕部もありましたし、ちなみに私は聖歌隊でした。
何か人のために良いことをするのが当たり前の精神的風土があって、私にはありがたい環境だったと思います。
高校生の時に、インドシナ難民を助ける会設立の記事が新聞に出ていたのを見たのだと思います。時事はあまり得意でなかったので、自分で目にしたのか、家族から聞いたのかもしれません。
母もミッションスクール出身で奉仕の精神は強い人なので、もしかしたら母から聞いたのかもしれません。
ちょうどその時、祖父からお小遣いをもらいました。
1万円は超えていたと思います。
お年玉とかではなくて、何でもない時にふっともらったそれに対して、何だかすごく恵まれているところに自分がいる心苦しさを感じたのは確かです。
「使えない」という気持ちになりました。
助ける会に丸々寄付したら、定期的にニュースレターが来るようになって、助ける会とのご縁がはじまりました。
助ける会の戸をたたく
本当の自分の興味関心や心のうずきに従って動いた初めの一歩が、新聞記事を見て、難民を助ける会に電話をかけたことだったかもしれません。
アフリカへのボランティア募集の記事を新聞で見て、都会の恵まれた家庭で生まれ育った自分の行き詰まりもあって、アフリカのような全然違う別世界に行ってみたいと思ったんです。
その思いに突き動かされて電話したのですが、その時の柳瀬さん(現在難民を助ける会会長 柳瀬房子)とのやり取りは今でも覚えています。
「あなたは看護婦さんでもないし、手に職もないから海外派遣、アフリカには派遣できませんね」とあっさり断られてしまったんです。
今から考えると、私はアフリカで生活なんてできないヤワな人間なのですが、若くて何も知らないって大胆になれますね(笑)。
ダメなら事務所のボランティアでもいいからと、毎週土曜日定期的に通い始めました。
そうこうするうち、その年の秋深まる頃だったか、今の安倍首相のお父さんの安倍晋太郎外務大臣が音頭をとって、政財界、マスコミ、民間にもアフリカ救援を呼びかけ、集まった寄付金を医薬品に替えてアフリカ10か国に届けるということがありました。
そのとき、助ける会が現地で薬を贈呈するボランティアを出すことになり、私がその役を担うことになったのです。
官民合同ミッションの形で、現地では大使館員の方が全て準備してくださっていて、楽と言えば楽な仕事でした。
1985年の2月、アフリカ諸国を2グループに分かれて訪問することになり、私のグループはフランス語圏のマリ、ブルキナファソ、モーリタニア、ニジェール、英語圏のスーダンを担当しました。
医薬品贈呈で訪れたスーダンの難民キャンプにて、子どもたちと。1985年2月
スーダン以外には大使館が無かったので、最寄りの大使館があるセネガル、コートジボワール、エジプトにも寄りました。
合わせて8か国、1カ月近くの旅となりました。
初めて助ける会に電話して、最初のアフリカ行きは叶いませんでしたが、結局トントン拍子で私に相応しい形で実現することになりました。
ちょうどその頃、エチオピアの飢饉救済のためにイギリスやアイルランドのミュージシャンが集まって“Do They Know It’s Christmas?” という曲をつくり、注目を浴びていました。
アメリカでもたくさんのアーティストが集結して“We are the World” がつくられて、世界中でアフリカへのチャリティ機運が高まっていたんです。
その様子は日本でも毎日のようにテレビで目にしましたし、アフリカに何かしなくてはという気持ちが日本人の間にも高まっていた時期でした。
アフリカでは日本大使館の方に「こんなところまで来る日本女性なんていませんよ」と言われたりしましたが、世界の思いが集まっていたそのアフリカの現場に、それも何らかの支援の仕事で行くというやりがい感や超レア体験に、進路のことで悶々としている悩みモードなど吹き飛んでしまいました。
私が進む道、見つけた
アフリカから帰ってきた直後に、外務省の論文募集を知りました。
いくつかある論文テーマの一番目が「飢餓に苦しむアフリカの開発問題と日本」でした。
気になりつつも、アフリカでの強烈な体験の余韻に浸るだけの毎日を過ごしていたら、仲のいい友達が「ちゃんとそういう課題にも取り組まなきゃね」と耳に痛いことを言ってくれて。
じゃあ、やっぱりやるか!と慌てて書きました。
ほとんど徹夜で書き上げました。
私がアフリカで新鮮な驚きを覚えたのは、日本の存在感がまったく感じられなかったことでした。
当時日本ではアフリカに何かしなくては!と日本中が善意の塊のようになっていたのですが、それは片想いだったことを思い知らされました。
現場に深く入り込んでいるのは西欧の人でした。
特にフランスは過去の植民地支配という負の歴史がありますが、一方で、それを打ち消すくらい、アフリカのためを思って現場で汗を流している方たちもいました。
アフリカの人たちには、もう友達がいたんだ、日本の存在って小さいんだ、日本で高まっていた熱い思いがキャッチされているわけではないんだ。
そんなことが新鮮な発見でした。
私の書いたことは単純だったかと思いますが、他の学生さんたちが沢山の知識をベースに論文を書かれている中で、行動を伴っているアフリカ体験談は別次元で評価されて、賞をいただけたのかと思います。
この外務大臣賞を受賞した時が、私にとっては、将来に向けての行き詰まり状態を明らかに突破できた瞬間でした。
誰かに言われたのでもなく、自分が興味ある方向に行動をとって、自分の力で何らかの成果を出せたことは、次に向かう大きな自信になったのです。
くすぶっていた自分の運勢が一気に好転し始めた瞬間で、助ける会のおかげで、私の人生の中でもとても輝いていた時期に突入しました(笑)。
助ける会のボランティアもいろいろなかかわり方があります。
何らかの自分の余力を発揮するというのもありますけど、私の場合は、進路で悩んでいる時に、会を通して進路を見つけていけたので、会が無かったならば今の私も無いと言える大事な存在です。
会の活動を通じてマスコミの方々と身近で接する機会もあり、何となく華々しいマスコミにあこがれる気持ちも残ってはいました。
でも、外務大臣賞の副賞でアセアン5カ国を訪問してJICAの現場視察をしたり、各国の大学生と交流する機会をいただいたりするなかで、「ああ、私の進みたい道は国際協力の分野だったんだ」というのを見つけた感じでした。
ボランティア活動は、純粋に自分の興味から近づくものですので、就職と違って、収入や待遇等の様々な条件から解放されています。
自分に相応しい道を選ぶ通過点として、私には助ける会がとても大事な役目を果たしてくれました。
JICAに就職。助ける会ボランティアも続く
助ける会の活動のおかげで、JICA関連のさまざまな方が私をJICAに推薦して下さり、また就職試験の直前に私が朝日新聞の記事にもなってJICAは仕方なく私を採用せざるを得なかったかと思います(笑)。
JICA勤務時代。バングラデシュやインドネシア、ケニア、ドミニカ共和国など世界各国からの研修生、職員と一緒に(左から5人目が森山さん)
JICAに入って2年半後くらいに名古屋に転勤しましたが、それまではフルに助ける会に関わっていたと思います。
文集の編集とか、合宿のお手伝いのほかにも、森進一さんや黒柳徹子さんが中心となって出演頂いた助ける会主催のチャリティコンサート「じゃがいもの会」では、お招きした歌手のサルバドーレ・アダモさんの通訳として、森さんやら中曽根康弘元首相やら、JICAの仕事ではお目にかかれるはずのない方々とお話したり。要するに、社会人になっても会を通じて経験の幅が広がりましたし、会が私を育て続けてくださったということでもあります。
お役所とNGO
助ける会では、普通に学生やOLをしていたら到底出会えない人との出会いをいただけたかと思います。JICAはお世話になったのに失礼な言い方で申し訳ないですが、お役所的な仕事です。NGOと同時に両方にかかわったことで、違いというか対比がすごく感じられました。
助ける会のボランティアをしていた時は、外務省の偉い方とご縁ができたり、アフリカの大使館関係者ともパーティーなどでお話しするチャンスがあったり、それこそマスコミから取材を受けたりもしましたが、JICAに入ったら本当に組織の一番下の下で。
その監督官庁の外務省の偉い方なんて絶対会える人ではなくて、序列の存在を初めて知りました。
序列に対応している人とのコミュニケーションしかありえない世界で、私自身は同じ私のままなのに、普通はこういうものなんだ……、と知ったというか。ちょっと助ける会で甘い汁を吸ってしまったからか(笑)、つまらないなあ……、とも感じてしまいました。
現在の助ける会がどうやって毎年資金を確保しているのかはわかりませんが、やはり自由に動く団体には資金確保のリスクはありますね。
世の中からお金が集まらなければ人も雇えないだろうし、縮小せざるを得ないし。JICAは就職先として考えたら、守られてる。
でもその分助ける会みたいに、「困っている人がいて、これが必要だからやろう!すぐにでも可能性を探して行動に移そう」という発想は難しいですよね。
理想に向かってしがらみなく、一直線に行動を起こせるのはNGOの方かもしれません。そして、助ける会は年齢も関係なく、いろんなチャンスをくださいました。
人材もそんなにたくさんはいなかったから、若くても頑張らないといけなかったのかもしれないですけど。
当初はボランティアだけでしたが、今は大学で開発問題とかを勉強して、就職先としてNGOの門を叩かれる方たちが増えているようですね。
そういう方たちがいる一方で、無償のボランティアの方もいるので、助ける会の様子もきっと昔とは違うのではないかと思います。
助ける会。そこに笑いがあった
私は助ける会の中で、どこで企画やいろんな仕事が決まっているのかは、あまり分からない立場でしたが、アイディアたっぷりの企画がいつも上から降って来ました。
それが助ける会の特徴でした。吹浦先生(現在AAR特別顧問、さぽうと21理事長吹浦忠正)は青少年育成のお仕事もされていて、若者を育てようという意識がすごく強かったです。
助ける会自体にも。年齢に関係なく、その人に長所があったらチャレンジさせて育てよう、そんな雰囲気がありました。
私はそれですごく育てていただきました。
この子だったらできる、という適材適所を見る力がおありだったのではないでしょうか。
吹浦先生も、柳瀬さんも同じ思いで若者を育てようって。
それは私だけでなくて、難民の奨学生たちに対しても、そういう目でみんなを見てくださっていました。
すごく自由な発想で。
そのカルチャーがお役所とは違いました。
これがやるべきことと決めたら、道なき道を切り開いていく。
どうにかしてやってみよう。人の心を動かす理想や、アイディアも優れていたから、寄付も当然のように集まったのではないかと思います。
NGOならではの、自由で、すごくのびのびして。そして、そこに笑いがありました。
当時、吹浦先生も胃から血が出たとか、身体を壊すくらい仕事をされていました。
でも、笑い飛ばして進んじゃう積極性。生真面目でない、のびやかさがありました。
その代わり、わからないけど……ちょっと仕事のし方としてはいい加減なところもあったかもしれません(笑)。家内工業的。
「こういうのが来たけど、ちょっと、ゆりさんやるかな」ぐらいのノリで、「えっ!?できませんけど」と言うと、「いいから、このくらいでいいから」と。
やってみないとわからないという、チャレンジ精神を教えていただきました。
私は全体像が見えていなくて、私の視点からですが、吹浦先生の伸びやかで自由奔放なところが、いろんな人材を引き寄せていたように感じます。
個人的なご縁も大切にされて、各界のお知り合いの方々を結び付けて、あれをやろう、これをやろうと。
駆け出しの時っていうのは、ほかの組織でもそんな感じなのかもしれないですね。
組織ができるとそれを維持して、管理しないといけませんし、人数も増えてきますとそう自由にもいかなくなってくるかもしれませんね。
難民となった同世代の人生に触れて
彼らは私とほとんど同世代でありながら、想像を絶するような体験を経て、日本を第二の祖国として選んだ、あるいは選ばざるを得なかった人々でした。
彼らと多くの時を共有し、友達となりました。
「助ける」「助けられる」という関係ではなく、彼らの人間的な魅力に惹かれ、彼らの隣人とならせてもらって近くで共に生きてみたい、そして私が何らかの力になれるのであれば彼らの応援団として自分の持てる力を貸してあげたい、という気持ちが大きかったように思います。
親友と。26歳の時。1988年4月
アフリカへの医薬品配布の仕事は本当に「助ける」という感じがありましたけど、国内の方は「助ける」というより、吹浦先生が、同年代同士みんなで楽しくやって、と。
そんな雰囲気でした。会の方で奨学生たちが羽を伸ばして楽しめる企画をいろいろとつくってくださったので、私も合宿の幹事をしながら一緒に楽しんだという感じです。
当時、優秀な人たちがゴロゴロいて。すごく文化レベルが高くて。
ベトナムでは、とても大きな家で、子ども一人に乳母が一人つくような生活をされていたと聞きました。
当時お父様もお母様もいらして、家庭内の会話がハイレベルで。
夕食時は政治の難しい話をしていたり……。
当時私は「レジャーランド」と言われていた文系大学生生活をしていたので、恵まれて育ったのに政変で一転して苦しい状況になり、そこで寸暇を惜しんで勉強している同世代の人たちを見たら、それはもう刺激を受けました。
自分の家庭を光輝かせる
1990年、27歳の時、JICAで知り合った男性と結婚。
翌年に長女が誕生しました。
研究のため留学する夫と一緒にオランダに滞在することになり、5年務めたJICAはあっさり辞めて……、ありがたい経験をいただいたと思います。
長女が生まれた時、主人がその9カ月後くらいにオランダに行くことがすでに決まっていました。子どもも生まれて別れ別れは……、ちょっとそこまでは。家族を最優先にする母を見て育ったもので。
31歳の時に次女が生まれました。長男は33歳の時です。
子どもが本当にかわいくて、キャリアを追及しようという気持ちもどこかに行ってしまって、純粋に子育てを楽みました。
たいせつなものは、目に見えない
ボランティアには目に見える報酬はないですが、結局、目に見えない報酬はいただいているんですよね。
病人や貧しい人たちの救済に献身したマザー・テレサは、「多額の報酬を貰ったってそんな仕事はできない」、と人に言われた時、即座に「私もできません」と応えたそうです。
お金のためだったら、自分もこのような仕事はできないのだと。
行動の動機がこの世的価値と全く別次元にあるということです。
振り返ってみると、私の場合は、助ける会を通じていろんな経験だとか、進路が開いていくとか、人との出会いとか、いただいたものはたくさんありました。
でも、マザーの宗教的境地とは違いますが、たとえそれらが無かったとしても、困っている誰かのために力になれたら、それはやっぱり嬉しいことです。
そう思える人は無償というのが損でなくてありがたい機会だと感じるのだと思います。
この記事の聞き手は平澤文美