さぽうと21 35周年記念 箱根のつどい

ベトナム難民との再会

難民を助ける会では、2014年9月、発足35周年にあたりこれまで出会った難民の方々と集う「ベトナム難民第1・第2世代のつどい」の箱根1泊旅行を開催しました。

柳瀬房子(難民を助ける会名誉会長・さぽうと21評議員)

文字通り生命をかけて、地雷の埋まっている国境を超えたり、ボートピープルとして国を逃れ、日本に定住を始めた難民の方々と親しくさせていただいているうちに、この方々は国を捨てたのではなく、国を背負って生きていると思いました。

そして畏敬の念を持ちました。

その年長者は、家長として、民族の矜持(きょうじ)を保ち、その子どもたちは、長幼の序を守り、祖父母や親を敬うようすに、「まるで一昔前の日本人みたい」と思っていました。

「自分が怠けたら、もし落ちこぼれたら、ベトナム人は駄目ねとか、難民はやっぱり駄目だと言われてしまう。
それは他のベトナム難民に申し訳ない…と、そう自分に言い聞かせ努力しました」と、トラン・ゴク・ランさん(ベトナム難民医師第一号)は言っていましたが、皆に共通する言葉だったでしょう。

そんな方々が定住して20年、30年、どのような日々を送り、今何を考え、何を喜び、何に悩んでいるのか、聞かせていただきたいと、皆さん誘い合わせて温泉にでも入りながら、ひと時を過ごすことにしたのです。
当日は、1970年代に来日して以来の方々やそのご家族総勢52名が勢ぞろいするという盛会でした。

ベトナム難民たちの思いと意見を聞いた


山田 寛(読売新聞特派員としてサイゴン、バンコク、パリ、ワシントンに在勤。前嘉悦大学教授。)

「ベトナム難民第1・第2世代のつどい」は難民で20年、30年、40年生きてきた年月の疲れを、少しでも癒してほしいという企画だが、その小旅行の夕食会、懇談会などで、彼らの現況、意見や思いを聞いた。

人生は何点?

「ベトナム難民は、困難の中で相当たくましく生きてきたのだなー。」
お話を聞いた後の私の感想である。

ただし、彼らの心の傷跡も再確認した2日間だった。

まず、来日後の自分の人生を、10点満点(6点が合格ライン)で採点してもらった。結果は、10点5人、9点7人、8点3人、7点4人、6点2人、落第点は0人。本音で答えてほしいとお願いしたが、多くが高い及第点をつけた。

最も厳しい6点をつけた男性は、1970年代前半、ベトナム戦争中に日本に来た元留学生。
「留学から帰国して国に貢献するのが人生の目標だった。それが達成できなかったから6点だが、日本の生活への不満ではない」と言った。

7点の男性も、「言葉の問題を乗り越えられなかった自己責任で、3点減点した」と説明した。

夕食会でも、日本が好きだ、感謝している、日本の人口減少が心配だから、恩返しに妻と頑張って子どもを5人育てた…といったスピーチが続いた。

リップサービス込みかもしれないが、聞いてうれしくなった。

うれしかったことは?

日本に来てから何が最もうれしかったか。

「15日間海を漂流後、生き返ったことが全て」
「平和と安全、安心が得られたのが何より」
「仕事をし、給料をもらう社会人人生をやり直せたこと」
「来日42年、予想以上で、自分の人生、成功だった」
「ローンで家を建てた時」
「難民になったのも子どもたちのため。子どもたちが大学を出て社会人になったのが一番うれしい」。

どれも基礎的で、小さな幸福。だが、激動と苦難を脱し、この日本でちゃんと生きてきたという彼らの満足感が強く胸にひびいた。

より若い世代からは、具体的に「今やりがいを感じている」との声もあがった。

90年代後半に留学生で来た36歳の男性(難民の親族)は、国立大医学部を卒業し、東京の病院の医師になった。

「うれしかったことは多いが、一番は、先ごろ医局長に抜擢されたこと。医局には他に6人、50歳以上の先輩医師がいる。外国人は私1人だ。時折病院を代表し、会合などであいさつする。流暢に話せず恥ずかしく思ったりする。でも、それだけ信頼・評価してくれていることが、すごくうれしい」。

ジャパニーズ・ドリームと言うと大げさだが、外国出身でも能力を評価され、責任あるポストに昇進する。日本社会もようやくその方向に進んでいる。

心配ごとは?

今後の人生が心配かどうかも質問した。
答えは、「全く心配がない」4人、
「不安がなくはないが、あまり心配していない」8人、
「ある程度心配」1人、「かなり心配」2人、
「すごく心配」1人。
通常、日本人への世論調査だと、もっと「心配」の割合が多いようだ。ベトナム人の方が楽観的なのかもしれない。

彼らのたくましさをさらに感じたのは、いじめに関してである。4人が、自分や子がいじめにあったと答えた。

ベトナム人中学生が、いじめられた子から話を聞いて、いじめた日本人中学生をなぐった、という話もあれば、こちらがいじめたという声も出た。
ベトナム側も、かなり反撃している。
入り乱れて複雑だが、近年日本社会に外国人が増え、単に外国人だからいじめられるケースは減ったというのが、出席者の一応の結論だった。

社会人版もあった。
49歳の男性が、私に話してくれた。
ボートで着いた直後から現在まで約20年、小さな金属工場で働いてきたから、7人ほどの工員の中でもベテランで、頼りにされている。
3年前、日本人の同僚から、工場長のひどいパワハラについて相談された。
工場長に談判したら、彼までいじめられるようになった。
負けずに辞表片手に社長に直訴し、結局工場長の配置転換を獲得した。

だが、ベトナム難民は強い、たくましい、とばかり強調するのは、一面的過ぎるだろう。
このベテラン工員も、最近、残業は増え、月給は上がらず手取り約24万円だから、生活は厳しい。

それでも一筋に頑張っている、ということなのだ。

今後の人生が「すごく心配」と答えた67歳の男性は、こう訴えた。
「私の年金は介護保険料を引かれ、月額1万5200円しかない。妻がバイトで6万円を得ているが、妻も身体が弱っているし、これからどう生活して行けるだろうか」。

年金加入期間が短い人が多いから、受け取り額も少ない。
年金に関する心配を改めて尋ねたら、先の5択の時に回答を保留した人も含め、7人もの手が上がった。

祖国への思い

またひとしきり議論になったのは、国籍と帰化の問題だった。
「帰化手続きが難しくて申請していないが、子どもたちの無国籍が気になる」、
「書類をたくさんそろえ、翻訳もしなければならないから、日本語がよくできず、助けてくれる人がいないと困難だ」、
「帰化するには旧国籍を放棄せよと言われる。現社会主義共和国など私は認めていないが、ベトナム国籍を放棄するには大決断が要る。だから無国籍でもよい」、
「国籍放棄手続きに、ベトナム大使館に行くのが嫌だ」などの意見が出た。

実際は、大使館に行く必要はない。情報がきちんと、広く伝わっていない。
日本の役所や支援NGO、NPOも情報伝達に一層努める必要があるが、ベトナム人社会でもっと情報交流ができればよいと思う。

参加者とは別に、日本語ができず、完全引きこもり状態の高齢者もいる。
ベトナム語ができない子や孫とのコミュニケーション・ギャップや、ベトナム現政権への賛否の意見の相違などもよく聞く。「孫世代は完全にベトナム人でなくなってしまいそうで、心配だ」と訴えた人もいた。
ベトナム難民のたくましい笑顔の裏側に、こうした葛藤や問題が包み込まれている。

第1世代参加者には、ベトナム現政権を拒絶し、里帰り旅行などもしていない人が多かった。

共産主義政権が打倒され、自分が国に帰れるよう、日本は力を貸してほしいと、真剣に訴える人もいた。

夕食会の最後に、彼らは「ベトナム、ベトナム」を歌って盛り上がった。
旧南ベトナム政府時代の式典でよく歌われた愛国の歌である。
第1世代は大声を張り上げた。
若者たちの口はあまり動かない。
軽快な曲なのに、デラシネ(祖国を失った人)の心の傷、過去への郷愁、世代間ギャップなどを行間に詰め、しみじみと重く聴こえる歌声だった。

社会福祉法人さぽうと21のあゆみ

 

1979 相馬雪香(当時67歳)が 「インドシナ難民を助ける会」を設立。(1984年「難民を助ける会」に名称変更)
1982 相馬 雪香(そうま ゆきか)1912年 東京生まれ。67歳ときに、難民を助ける会の前身である「インドシナ難民を助ける会」を設立。2008年11月に96歳で没するまで、社会福祉法人さぽうと21、姉妹団体の認定NPO法人難民を助ける会の会長として、支援活動に携わったほか、様々な市民団体等の要職を務め、世界各地で活躍した。日本初の英語同時通訳者。「憲政の父」と言われる尾崎(咢堂)行雄の三女 。
難民救援奨学金制度(現 ・ 生活支援プログラム)が発足。10人の在日難民学生に支援開始。以後、1992年さぽうと21発足までのべ3000人を1人平均6年間支援。
1983 難民子弟へ教科補完教育をする「難民塾」(現 ・ 学習支援室)を開設。
在日インドシナ難民奨学金給付学生文集『私の始まり』を刊行。その後1995年まで文集を刊行。
1984 会の名称を「難民を助ける会」に変更。
三菱銀行国際財団の助成で「難民問題研究フォーラム」を月1回開催(国連難民高等弁務官駐日事務所 [UNHCR] ・外務省 後援)。
横浜に小中学生のための難民塾「ひまわり」を開設。小学生を対象に補完教育を行う(1994年まで)。
1985 『インドシナ難民来日十周年記念 在日インドシナ難民奨学金給付学生文集 私の十年 ―いままで これから』刊行。
1986 生活相談室(現 ・ 相談事業)開設。
インドシナ難民運動会(難民オリンピック)を開催。300人のインドシナ難民が参加。
新宿駅南口に難民塾「太陽」を開設。400名以上の日本語ボランティアが在日難民やその他外国人1000人以上に、1対1で日本語を指導(2000年にさぽうと21学習支援室に引き継ぐ)。
1987 『在日インドシナ難民奨学金給付学生文集 私と日本』刊行。
第1回難民日本語スピーチコンテストを開催。以後、2000年まで計14回に渡り、継続実施。
1988 ベトナム難民コンピューター愛好会が活動開始。就職活動に有利になるよう自主的に発足した。
新宿「太陽塾」にて、母語の文化と言葉の継承のための「カンボジア語講座」を開催。
1989 「難民相談室」を設け、個々のケースの改善と進学・就学相談に対応する。
インドシナ、アフガニスタン難民学生91名に難民救援奨学金を給付。
1990 五反田に難民子弟への教科補完教育のための「ゆうあい塾」を開設(2000年にさぽうと21学習支援室に引き継ぐ)。
1992 社会福祉法人さぽうと21(名誉会長 相馬雪香)設立。
「さぽうと21生活支援金」の給付制度を開始。日本に住む難民やその子弟、元外国籍の方や日系定住者の子弟等の中で、特に生活困窮度の高い学生を対象としている。
1995 阪神大震災で被災した外国人(難民を含む)を対象に「サニーちゃん基金」を設立し、無利子貸付を開始。返済を求めず、単身者20万円、家族のある人40万円を基本に、約350名に対し、総額1.2億円の支援を行う。
阪神大震災における被災者の 支援活動等に対して、厚生労働大臣より感謝状が授与された。
2000 さぽうと21の学習支援室開設。「ゆうあい塾」の業務を引き継いでの誕生。
2003 吹浦忠正が理事長に就任
2005 アジア福祉教育財団難民事業本部(RHQ)の委託を受け、RHQの運営する難民認定申請者緊急宿泊施設の連絡人業務を行う。
「坪井一郎 ・ 仁子学生支援プログラム」を開設。将来、日本および海外諸国において活動できる優秀な人材の育成が目的。
2006 12月 「さぽうと21交流会」(現 「支援生による研究報告会」 ・ 以後、毎年年末に実施)を虎ノ門パストラルにて開催。
2007  6月 難民フットサル大会の開催に協力。
学習支援室にて、日本語指導、学校教科指導に加えて、パソコン指導を再開。
10月 三菱銀行国際財団の助成を受け、YMCAアジア青少年センターにて「秋期研修会」を開催。
2008 11月 11月8日 : さぽうと21名誉会長 ・ 相馬雪香 永眠(享年96歳)
UNHCR委託事業「難民・庇護希望者のための集中日本語コース」実施(2009年度完了)。
2010 10月 日本郵便年賀寄附金配分事業として、国連大学エリザベス・ローズ会議場にて外部向け学習発表会「共生社会への実現に向けて、その現状と課題」を実施。
2011 2月 火事で罹災した学習支援室の受講生への募金活動を実施。
3月 3月11日 : 東日本大震災発生
AAR Japan [認定NPO法人 難民を助ける会] と協力し、東日本大震災関連支援事業を開始。
日本郵便年賀寄附金配分事業として、日本に在住する外国人向けに「地震と放射能についての多言語通訳付き緊急セミナー」を目黒、渋谷にて各1回実施。
5月 東日本大震災チャリティコンサート「故郷」 (5月20日) を開催。コンサートの純益と、指定ご寄付を元に、被災地の学校に楽器を寄贈。
8月 宮城県仙台市や石巻市などに居住/避難されている被災者の方々約800人をご招待し、エリック・オービエ氏と仙台フィルによる心のコンサート<希望> (8月5日) を開催。
2012 8月 日本郵便年賀寄附金配分事業として「2012年度 夏期研修会」を実施し、宮城県の被災地にてボランティア活動を実施。
12月 日本郵便年賀寄附金配分事業として「在日難民などが語る 『今、日本社会に伝えたいこと』」を開催。
2013 3月11日 東日本大震災における被災者の 支援活動等に対して、厚生労働大臣より感謝状が授与された。

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