ビドン島派遣看護師に応募、即採用で国際看護師の道に  宇野 いづみ【ボランティア】

マレーシア、ビドン島にて。体重測定やワクチン接種の確認など、子どもの健康チェック中。カメラの持ち込みが禁止されている島で同僚が素早く撮影。

うの・いづみ
1956年東京都生まれ。東邦大学看護専門学校を卒業後、同大学付属病院にて3年程勤務して退職。ハワイで英語を学び、一時帰国中にAARのマレーシア、ビドン島派遣看護師に応募し、1983年9月から1987年8月まで足掛け4年、島で看護師、またメディカル・ケースワーカーとして活躍する。その後もボランティアとして国際医療支援の道を歩む。1993年からはJICAの在外/国内健康管理員として各地に赴任。オーストラリアの大学で看護学士、修士号を取得。JICAでは後進の育成にあたり、2019年7月からはバングラデシュに赴任。ビドン島での活動記録を綴った、宇野いづみ・佐々木仁美ほか『ビドン島難民キャンプにおける看護活動5年の記録』(難民を助ける会 1985年)がある。

ビアフラ戦争の報道に衝撃を受け国際看護師を目指す

小学校高学年から中学生の頃1967年に勃発したナイジェリアの内戦・ビアフラ戦争の報道を目にし凄惨な現場の状況に衝撃を受けたのです。

こういうところで働いて、役に立てる人になれたらいいなって思いましたね。

テレビでは特に看護師さんに焦点を当てていたわけではないのですが、報道される人たちはやっぱり怪我をしているとか病気だとか、極度の栄養失調じゃないですか。
そうするとやっぱり支援者=「医療者」みたいに結びついたんです。

また高校時代に母が病気で入院したんです。看病とかお見舞いで病院に行って見ていると、やっぱり一番患者さんと接する時間が長くて、一番ケアしてくれるのって看護師さんだよなあ、って。それで高校生の頃から、看護師を目指しました。

母は戦前生まれの人で、基本的に私がやりたい、って言う事は全てサポートしてくれました。
自分が出来なかったからこそ「あなたやりなさい」という感じで、すごく背中を押してくれました。
父も私の進路に関しては特に何も言いませんでした。

大学病院に勤務後、ハワイで英語の勉強

高校を卒業して東邦大学看護専門学校に入学しました。
卒業後は同大学付属病院に就職しました。

看護師として働き3年程たった頃、国際看護師になるにはやっぱり英語を喋れないと、どこにも行けないかなと思い、一人で英語を勉強しに行こうって決めたんです。
最初はアメリカ本土の学校に入学しようとしたら両親にも反対されて、じゃあハワイの大学ということで許してもらえました。

面接一回。ビドン島行き、決まる

1983年、ハワイの大学の長期休暇中で、日本でバイトしてからまた戻ろうと思っていたんです。
その時にAARのことが新聞に出ていて。
ちょうど看護師さんを募集していて、「これ、ちょっと聞いてみようかな」と連絡してみたら、事務所に来てくださいと。

うかがってみたら柳瀬さん(現AAR名誉会長、柳瀬房子)がいらして。少しお話しただけで「じゃあ、行きましょうか」とマレーシアのベトナム難民キャンプのあるビドン島行きが決まってしまったんです。

履歴書を持って行っただけで、英語ができるかもチェックされませんでした。
「私でいいんですか!?」という感じだったのですが、いいって言ってくださるのだからこの機会に行ってみようと。

私、いつか柳瀬さんにどうして私が行けることになったのかを聞いてみたいです。
だって私、得体が知れないじゃないですか。
それまでAARとは何の接点も無いのに、「新聞見ました~」とやって来て。

私も世間知らずで、もともとAARの事をきちんと勉強して行ったわけでもないから、「あ、柳瀬さんいい人だな、感じいい人だな、行ってもいいって言われちゃった!」という感じで(笑)。

実際に難民キャンプに行って働くことができることがすごく嬉しかったのです。
現地滞在費もいただいてました。

住むところはキャンプ敷地内のスタッフ用の宿舎ですし、島にいる時はそれほどお金もかかりませんでした。

ビドン島にて1983年9月―1987年8月

ビドン島赴任当初はまさに私一人しかいなかったんです。
今から振り返って考えれば「私、この頃AARの代表だったの!?」みたいな感じです。
そんな責任重大なことやってたんだな、って今振り返って思います。

柳瀬さんから「何でも言ってね」と言われていて、すごくバックアップしてもらいました。とても恵まれていたと思います。

当時は島に電話もなくて、今と違って手紙だけが連絡手段でした。
難民キャンプから手紙を出す時は、本土に行く船に乗る人に「お願い、出してきて!」と頼むわけですから、よく届きましたよね。
「これが無いから買いたいです」とお伝えすれば送金していただきました。
医療器具、下着など「これが必要です」と言えば買ってくださいました。

一時帰国すると、吹浦先生のアレンジで新聞の取材を受けたり、講演したりする機会もあったんです。
講演には、AARに寄付をされている方とか、協力されている方が来てくださった。最初の頃、私はAARがどういう会であるかよく知らなかったのですが、皆さんの志で成り立っていることが分かりました。

国際チームで働くということ

治療はドクターに従わなければいけませんが、それぞれ勝手が違いました。

ビドン島の時はフィンランドとか北欧の人たちでしたけど、皆さん考え方が違います。
使うお薬の量も全然違うんです。
例えばの話、同じ薬でも、日本だったら一粒が250mg、海外だと500mg。
日本では1回に2粒だと500mgだけど、海外だと1000mgで倍の量。
だから、そうやって治療されていると、日本式に治療しても弱すぎて効かないことがある。
薬は日本より強いし、多いです。

ビドン島にて。子どもの健康チェック時には、母親への保健指導も。宇野さん(中央)の左奥の女性は、島に滞在している間病院の仕事を手伝っていた難民の女性。

人間関係でいうと、すごいパワフルな医師もいて、AARの看護師は苦労していましたね。
皆さん経験のある看護師さんだったから、やりたい事もあったのだけど、医師の方が聞く耳を持たないこともあるんです。

私の時はそういう人はいなかったかな……。ちょっと怖い女医さんはいましたけれど。
半袖のTシャツを着ていると怒られちゃったりして。
マレーシアの宗教のことなど不勉強で行ってしまったので、肌を出してはいけないことも全然知らなくて。
赴任して初めての週末、短パンに半袖でキャンプの中を歩いていたら、怒られました。
Behave yourself!(お行儀良くしなさい!)なんて言われて。
でも英語を教えに来ているイギリス人の白人の女の子とかは裸同然みたいな恰好でビーチで泳いでいるんですよ。
英語のネイティブではないアジア人の言うことを軽んじる傾向はありましたから。

でも私、「長い物には巻かれろ」という感じですから(笑)、上司と喧嘩するとか、そんなになかったですね。
たとえ自分の意見が通らなくても、「ダメか。では他のことを考えよう」と思うくらいです。

よく言えばフレキシブルですけど、悪く言えば信念がないんですよ。

メディカル・ケースワーカーの仕事

当初看護師として赴任しましたが、第2回目の派遣ではメディカル・ケースワーカーとしての仕事を担当しました。

メディカル・ケースワーカーは難民がどのような経緯で難民キャンプにたどり着き、これからどこの国に行って何をすることを希望しているのかについてケースレポートにまとめ、UNHCRに提出する仕事です。

私が主に担当していたのは障がいがある難民でした。障がいがある人の場合、第三国に定住する時の優先順位が高いんです。
特にヨーロッパは、障がいがある人や弱い立場の人を優先的に受け入れてくれました。
日本だけですよ、そういった人たちに背を向けていたのは。

定住希望の国が、この人をぜひ受け入れてあげなければ、と思ってくれるようなレポートを仕上げるのが仕事です。
レポートを書くためには、その人のこれまでの詳細なバックグラウンドとか、どうして国を出なければならなかったのかとか、いろいろ聞いて書きます。

けれどもやはり皆多かれ少なかれいろんな事情があるから、どうしたの?って聞いてもそんなに簡単には答えてくれません。
時間をかけて人間関係をつくっていくんです。
難民キャンプですので、時間はいくらでもあって、昼に聞き終わらなければ夜でもいいですし、しかも同じ場所で生活しているので、その人のことが本当に見える。
相手が話したい事を話してもらって、その中に自分の知りたいことがいろいろ含まれていると……、よしっ(ガッツポーズ)!
無理に聞き出すのではなくて、いろいろな話がぽろぽろと出てきて、ああそうだったのか、と。私としてはおもしろい仕事でした。

病院での医療は、それは自分の専門分野ですから役に立っている感覚はありました。じっくり座って誰かの人生に向き合うというのは、看護師としてはそれほどメリットはなかったかもしれませんが、何というか人間的なところで、すごく役に立った。

今、JICAの健康管理員としてボランティアや専門家、職員の皆さんたちのケアとサポートをしていますが、どこかで活かされているのかな、と思います。

人も様々、傷病や悩みも様々で必ずしも見た目通りではないんですね。
すっきりした解決法や回答はなかなか見いだせない仕事です。
だからこそおもしろくもあるかと思うのですが。

難民の人から聞き取った内容をレポートにまとめて、そのレポートをもとに希望定住先の国の人が直接難民にインタビューします。それで定住OKが出ると、よかった!と。それが目に見える成果です。
あとは、ケースワーカーのボスが、ジュネーブから定期的にやって来て、私が難民の人と面談しているところを観察して評価するんです。
めちゃめちゃ怖かったですね。自分の言語で話しているわけではないですし。

ビドン島での暮らし

最初の住居が病院内の2階で、床が傾いて四方から雨漏りする状態だったことには、さすがに驚きました。
雨の時はベッドを部屋の真ん中に移動させるんです。
でも、難民キャンプですし、元々期待値も低かったです。
仕方ないなと思いました。

難民キャンプで難民の人たちとほぼ同じレベルの生活をしつつ、働いていろんな事を経験出来ました。
自己満足かも知れませんが、微々たることでもその人たちの人生に関わり、多少の役に立ったのかな、と思えることは楽しかったですね。

日本の病院で働いていた時よりもずっと相手との距離が近く、時間も人生も共有している環境。
ろうそくの火を囲んで一緒にご飯食べたり……、そういうのって違いますよね。皆同じですから。

食事は雨漏りのする食堂で、難民の中で料理経験がある人が、朝は目玉焼きや、砂の混じったパンなどを焼いているとか、そんな感じでした。
砂は粉に入っちゃうんでしょうね。
でも焼きたてだと美味しかったですよ。
サンドイッチならスパムとかを挟んで。
たまにそこにキュウリがあればすごく嬉しい、みたいな。

昼、夜は基本的にインスタントラーメンです。
ご飯だったら缶詰のツナ缶を煮て、ちょっとだけ野菜が入っているぶっかけご飯的なものが食堂で出ます。
食堂はこんな感じのご飯しかないから、小さいコンロを一つ買って、ちょっとしたもの買ってきて自分で野菜炒めをつくったりとか。
同僚の女の子たちとスイーツをつくったりもしましたね。
物が無いながらも、誰かが本土に行った時に買ってきた物をみんなで食べながらおしゃべりするとか。

日本に帰国していたある時、自分では「またお腹壊しちゃってるな」という感じであまり気にしてなかったのですけど、それが1カ月半続いて体重が落ちてしまいました。
アメーバ赤痢の薬を飲んだらピタッと治ったので、じゃあ赤痢にかかっていたのかな、ということもありましたね。

ビドン島入島の際は、必ず警備員による厳格な荷物チェックがありました。持込み不可の物は、カメラ、アルコール類、武器の類です。
キャンプで難民を収容している家は、家と呼べるほどのものではなかったです。
無人島にバラック、それをブルーシートで覆って雨風をしのぐという状況だから、マレーシア政府としては自慢できる施設ではなかったのではないでしょうか。
ゴミもすごいし。
配給されているご飯も、驚くほど質素ですし。
トイレは海に垂れ流し、という具合ですから。
あまり見せたくなかった、というのがあるのではないでしょうか。

難民の人たちは、みんな歌が好きですごく盛り上がります。
私はバレーボールも好きで、難民キャンプでもみんなでバレーボールをやりました。スポーツをやっていて、とても役立ちましたよ。

10年のボランティア活動を経てJICAへ

ボランティア大好き、もっと続けたい、これで一生やっていきたい、と思って青年海外協力隊、国連ボランティア計画などで10年くらい続けていました。

でも家族を持ちやめて帰国することにしたんです。
夫は難民として滞在していたベトナム人男性です。
香港で男の子が誕生しました。

帰国後は日本のJICA本部に勤務しました。

通常JICAの契約期間は普通は2、3年なのですが、私はたまたま終わるたびに次もどうぞ、と声をかけていただいて、これまで25年くらいずっと、不思議なくらいつながっているんです。

今までずっと途切れることなくJICAの健康管理員の仕事にお声がけしていただけるのは、ボランティア時代の経験があったからだと思います。
最初から条件の良い駐在員をやっていたとしたら、今の私は無いですよ。

パートタイムの社会人学生に

JICAの仕事でベトナムに駐在していた頃、次は日本の本部に戻り、看護師を取りまとめるポジションに就いてほしいというお話がありました。

その時既に40代後半だった私としては、現在の看護について勉強し直さないと、リーダーになるにはおぼつかないという自覚があり一念発起、オーストラリアの大学でパートタイムの社会人学生を始めました。

都合3年半ほどかかって、本当にうつになりそうなくらい勉強は大変でしたが、その後国内、海外での仕事をしていく上で大きな自信になりました。

その後はアフガニスタン、パプアニューギニアに赴任して、2017年1月に帰国しJICAの国際協力人材部の健康管理課で働いています。

日本のJICA本部で仕事中の宇野さん(右)。各国に派遣される健康管理担当者を統括するポジションにあり、多忙な日々を送る(2019年6月)

若い人たちへ

今から思うと、かつての状況が信じられないです。何でも便利な時代になっちゃった。
今、青年海外協力隊の若い子たちを見てると……、例えば新しく来た子を空港に迎えに行きますと、もうゲートを出てきたところからスマホをいじって「お母さん着いた」とかそんな感じですから。
途上国に来たとしても全然日本から脱してないといいますか。

日本とリアルタイムで連絡が取れるし、どんなニュースでも見ることができちゃう。
私はある意味、昔の方が面白かったと思うんですけど。

せっかくだから、そこの国の人たちと喋って、そこの国の食べ物も、1度や2度は試してみればいいのにね。
口に合わなければ別に無理することないけれど。

大学で開発とかいろいろなこと勉強して、自分はこういうことやるんだ!と理想に燃えてる方とか、よくいらっしゃいますが、あまりに理想に燃えすぎても……。絶対うまく行かないですね。

中にはうまくやられる方もいらっしゃるのですが、やっぱり、自分の中に確固たる理想的なピクチャーができてしまっていて、そこに現状が合わないと、キーッ!となってしまうことが多いかな。

だからAARが新卒の方を採用しない、というのはすごくよく分かります。
やっぱり国際支援に関係がなくても、いろんな社会経験をされて、苦労した経験は、その時々は大変でも、どんな事でも、すごく貴重だと思います。

ベテランの視野狭窄もまた怖し

私が今すごく感じているのは、多分どの仕事でもそうだけれど、同じところに同じように居ると、自分が全部分かる人になってしまい、新しいことをやってみようとか、変えようとか思わなくなっていくことです。

新人は黙ってついて来なさい、ではなくて新しい目線や視野こそ重要なんです。
費用対効果で言えば一人の人が長くいた方がいいのですけど、そこにちょっと仕掛けないと。

ガボンでの病院視察。右から宇野さん、緊急外来の看護師3人と医師、JICAの企画調査員と現地事務所のスタッフ。在外健康管理担当者のサポートなど海外出張も多い(2019年5月)

時が戻ったとしても、同じことをやりたい

今後はやっぱりこれだけいろいろな経験をしてきたから、これからは私の経験を若い世代の人にできるだけ伝えていきたい。

今は体力的にはもう、フィールドで泥まみれになって働くのは無理だと思うんですけど、20代、30代の若いボランティアの人たちをいろいろな形で支援してあげたい。

もう一回若くなったとしたらまた同じことをやりたいです。
過去に私がしてきたことはどれをとっても本当に楽しかったし充実していたから。

私がこれまで自分のやりたいことには何でも挑戦できて、充実した人生を送ってこられたのは、家族や友人知人たち、それから上司と、一緒に汗を流した仲間の理解と協力、助けとご指導のおかげです。これまで接点があったすべての方々に感謝しかありません。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は宮澤明音、構成は平澤文美。

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