東京都外国人相談の黎明期に相談員として、ボスニアで選挙監視、ラオスで学校をつくる。 高橋敬子【さぽうと21理事長】

ボスニア・ヘルツェゴビナでの選挙監視。花が添えられた投票箱の奥、右から2人目が高橋さん。2000年。

たかはし・きょうこ
1947年、東京生まれ。中学から大学まで青山学院に学ぶ。ミッションスクールという環境もあり、学生時代から多くのボランティア活動に従事。東京都外国人相談の相談員をしながら、2000年からはAAR常任理事、2007年からはさぽうと21の理事・事務局長。1998年及び2000年に日本政府派遣によるボスニア・ヘルツェゴビナ国際平和協力隊に参加。1998年には首都サラエボに選挙管理要員として、2000年にはボスニア地方選挙の選挙監視業務を行うためにバニャルカに渡った。2010年より、法務省難民審査参与員。

赤十字語学奉仕団でパラリンピックの通訳ボランティア

私は中学校からミッションスクールにおりましたので、小さいころから何となく学校の雰囲気の中にも、ボランティア活動や他の人のことを考える、といったものはありました。

大学ではESS(English Speaking Society)のサークルに入って上級生から日本赤十字社の語学奉仕団を紹介されたのがボランティアの始まりです。
何かいいことができそうという非常に軽いノリで参加しました。

赤十字語学奉仕団は日本赤十字社の橋本祐子(さちこ)青少年課長(以下、ハシ先生)が中心になって1964年の東京パラリンピックのために結成された通訳ボランティアを母体として設立された団体です。
私自身は、1964年のパラリンピックでの通訳奉仕には参加しておりませんが、ESSの活動の他に英語を通して「障がい」について学ぶ機会が与えられました。

1968年のオリンピックはメキシコシティで開かれましたが、パラリンピックはイスラエルで開かれました。
ここで、単に通訳するというだけではなくて、車いすが扱えて障がい者スポーツを理解しているということで、私も同行させていただけることになりました。

私の今の活動のベースには、そういった経験があるんだと思います。
語学奉仕団の活動を通して様々なことを学び、経験もさせていただきました。
また、吹浦忠正さん(さぽうと21会長・理事、AAR特別顧問)に出会ったのも赤十字のボランティア活動を通じてでした。

「青年海外派遣」へ

政府主催のプログラムで、日本の青年を海外に派遣する「青年の船」という事業があり、今でも「世界青年の船」として続いていますが、その第一回のとき(1967年)には政府は男性だけ乗船させるつもりだったそうです。
そのことを知ったハシ先生は、「青年は男と女から成っている。女を乗せない青年の船とは納得できない」と時の佐藤栄作首相に直接お会いになって、直談判したそうです。
結局、女性も乗れるようになり、自らも副団長となって乗船なさいました。

そんな経緯もあり、日赤語学奉仕団の仲間も渉外団員として多数参加したのですが、当時未成年だった私は「青年の船」には乗船できませんでした。
「青年の船」への参加という夢はかなわなかったのですが、大学を卒業した年に、同じく政府主催の「青年海外派遣」には加えていただくチャンスが巡ってきました。
総理府の第13回「青年海外派遣」オセアニア班の渉外団員としてオーストラリアとニュージーランドを約2カ月かけて訪問しました。
訪問先は社会福祉施設や幼児教育施設、牧場、少年院などで、ニュージーランドの首都であるウェリントンをはじめ、オークランド、クライストチャーチでそれぞれ数日間ホームステイを体験するなど、
とてもユニークなプログラムだったと思います。団員のほとんどが初めてパスポートを手にした若者でした。

異文化体験としての長崎での生活

やがて結婚し、1974年2月に長女が誕生。その年の5月に夫の転勤のため長崎市に移りました。

長崎への夫の転勤は、私にとっては一大事でした。東京生まれ東京育ち、しかもずっと持ち上がりの学校にいましたし、しかも新米の母親として行ったので、初めてのことばかりでした。

早速、乳児健診のため大学病院に行って、問診票にまず驚かされました。
親の被爆体験についてのチェック項目があったんです。
ここ長崎は被爆したのだと改めて気づかされ、大病院に軽い気持ちで健康診断に来てしまったことにショックを受けました。

乳幼児を抱えての、子育ては緊張を強いられることもありました。
東京だったら、ホームドクターもいて親もいる。
今のようなネット時代でもなく、情報を得ることも簡単ではありませんので、何かあったときのために一人で対処しなければいけない、という緊張はありました。

ある日、ラジオから「昨日、〝ボートピープル〟を乗せた船が港に着いた」しかも「船の上で難民の女性が出産した」という話が聞こえてきて、「ええっ?」と思いました。
「自分は幼い子どもを連れて東京から長崎に来ただけでいっぱいいっぱいになっちゃっているのに」と、ものすごくその女性のことが気になりました。
さぞお困りだろうとその方のことが頭から離れない感じでした。
それで、オムツやベビー服など「きっとこれは役に立ちそう」と思ったものを風呂敷に包みました。

土地勘もなくて、どこに持っていっていいかも分からない状況でしたが、「先日、放送のあったお母さんにお渡しください」と長崎放送に持って行きました。
歳末助け合いや災害時など、放送局は募金の窓口にもなっているし、取材した記者ならば上陸した難民がどこに滞在しているかを知っているだろうと思ったからです。

「お気の毒」とか「可哀そう」とかではなく、「自分のところにある新品のおむつやベビー服をお使いになりませんか」といった感覚だったような気がします。
今思えば、よくあんなことをしたなと思います。
さほど行動的なタイプの人間ではありませんでした。
学生運動が盛んだった時代に学生だったのですが、デモに参加したこともなく、集会に出たこともありませんでした。
日本にたどり着いたお母さんの話を耳にしたときは、矢も楯もたまらず行動したんですね。

そのお母さんに会ったことがあるわけではありません。その人たちがその後どうなったか何も知りませんし、すぐに難民を支援する活動に参加したわけでもありませんでした。

東京に戻って東京都外国人相談の相談員に

長崎の後は愛知に転勤になり、1982年に東京に戻りました。
その後、学生時代の仲間に誘われ「帰国子女」のためのサークルの手伝いなどをしていました。

1988年のことです。日本はバブリーな時代で来日する外国人が増加し、東京都も行政として「何とかしなければ」という時代でした。

東京都が悩んだのは「どういう体制を組むべきか」でした。
外国人にどう対応をすればいいか、どんな人材が適当か、ずいぶん検討されたようです。
外国人とボランティア活動をしている人が良いのではないかということになり、私を含む帰国子女サークルの4名が外国人相談員を始めることになったわけです。

私は40才を過ぎていましたが、改めて相談に応じるための勉強をし直すことになりました。
在住外国人の相談には、単に日本にあるルールを「翻訳」すれば良いわけではありません。
いろんな制度がここ30年の間にずいぶん変わりましたが、当初はその制度がまだ「外国人仕様」ではなかったですね。
福祉制度についても、多くの行政サービスの存在は知っていても具体的にどういうことなのか、学び直さなければなりませんでした。

外国の方が日本に住むことで直面するありとあらゆる生活面での相談がありました。
今でこそ各地で外国人相談を行っていますけれども、行政で設置したのは東京都が初めてだったんです。
他には当時中国の方が急増した豊島区役所が中国語で対応を始めたところでした。

今から考えても有り難かったと思うのは、通訳ではなく相談員として関わることができたことです。
質問されたことに対して直接答えることが許されたのです。
答えて良いということは、常に対応できるよう準備しておかなければならないことで、チャレンジングなことではありましたが、努力のしがいもありました。

一つひとつが勉強でした。今ならいくらでも専門書があり、ネット上にも情報があふれていますが、「こんなケースはどうしましょう」となると、東京駅近くの八重洲ブックセンターを上から下まで歩いて本を探して調べるということもしていました。
まだ都庁が有楽町にあった時代です。
その都度相応しい回答を見つけ出しては対応しました。
元をたどれば些細なことが大きな問題となっている場合もたくさんありました。

その数年間にいろいろたたき込まれました。
民間人を通訳としてではなく、相談員として対応させるということは、都庁側も相談員を育てるのに必死だったと思います。
失敗は許されない感じがありました。

ありがたいことに、都庁では都民相談のために、あの当時は弁護士、家庭裁判所の調停員などの分野の専門家がいらしていたので、折々に専門家のご意見も聞かせていただきました。
法廷見学に連れていっていただいたり、相談業務を通じてずいぶんと鍛え上げられました。とても多くのことを学びました。

そのころ痛感したのは「東京都ってやっぱり影響力が大きいな」ということです。
外国人相談を東京都が始めたということで、次第に全国区になっていったわけです。
「東京が始めたのなら」とあちこちの行政が外国人相談を始めるようになって、今では日本中いたるところで、創意工夫を重ねながら実施されるようになりました。
今では外国語での労働相談や医療相談、法律相談等も行われるまでになっています。

そのころの私は急に世界が広がり、必死で勉強しながら自分の引き出しを増やしていた気がします。
都庁の外国人相談の開設時は英語だけでしたが、ほどなくして中国語での対応も始まりました。
1989年の天安門事件のときには、天安門に係る相談が寄せられていて、中国語の相談員の話を聞きながら、いったい何が隣国で起きているのか、とても気になりました。

外国人相談は世相の最前線だと、私はいつも思っています。
相談に携わっていて「何かざわざわしてきたな」と思うと、必ず何かがありました。
例えば、入管法など関連法規の改正であったり、多文化共生、共生社会というようなことを最前線で見てきました。

バリアフリーと一言で言っても、いろんな意味でのバリアがあります。
ハード面でのバリアフリーもあるけれども、ソフト面でのバリアフリーも考えないといけません。
カルチャーであったり国籍であったり、日頃意識してなかったとを痛切に感じさせてくれるところでした。

AARの「どっぷり」応援団に

AARは1979年の創立ですが、10年ほど経って、東京コミュニティカレッジとの協力により、日本に定住した難民の進学・就学などの相談に応じる相談室を開設しています。
日赤語学奉仕団で活動しているころから知っている吹浦さんを通して、外国人相談を行っていた私たちとは「相談という部分はいっしょですね」という話になって、AARとの交流が始まりました。

そうした交流が進む中で起きたのが1995年の阪神淡路大震災です。
そのときに私はAARの相談員として神戸に何度も通いました。
日頃、外国人の相談に関わっていて、外国人の相談にのることに慣れているからという理由でした。
そのころからAARとのお付き合いが深くなっていきました。

AAR、さぽうと21では、阪神・淡路大震災被直後に「サニーちゃん基金」を設立。相談員を派遣して、被災した外国人(難民を含む)に返済を求めない無利子貸付を行った。高橋さん(中央)も相談員として参加。左は長年相談員を務めた児玉雅子さん。1995年

2016年にお亡くなりになり、残念なのですが、当時AARの相談員に樋口静子さんという方がいらっしゃいました。
彼女は元都庁の職員だったこともあり、信頼というか、割合近しく感じてくださって、いろいろなことに声を掛けてくださった。
その彼女がAARからさぽうと21に移られたので、私の活動もさぽうと21につながっていきました。1996年にはさぽうと21の生活支援プログラムの支援生採用面接に面接官として参加したりもしました。

政府派遣によるボスニア・ヘルツェゴビナの選挙監視に参加

何となくインターナショナル・オペレーションというか、さまざまな国の人と関わり合いながら何か一つのことをするということに憧れていたんです。
そんなときに、たまたまAARの関係者が選挙監視に参加したと聞きまして。
それで、吹浦さんに「あれってどういう方が行くものですか」と伺ってみたんです。
そしたら「興味があるのか」と聞かれて「興味があって面白そうだなと思います」と言ったところ、「そういう活動に興味がある女性は珍しい。でも、向いてるよ」と言われました。

日本では当時、いろいろなインターナショナル・オペレーションに、学者とか地域研究を続けてきた人、地方の選挙管理委員会の職員とか、専門家ばかりが参加していました。
けれども「それだと市民の顔が見えない」と他の国から言われることもありました。
それで、どうも一般の人が参加すべきだと日本政府の考えも変わってきたときに吹浦さんが推薦をしてくださったようで、面接を経て選挙監視に参加することになりました。

1998年に選挙管理委員としてボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに行き、2000年にも続けて、今度は選挙監視業務を行うためにボスニア北西部にあるバニャルカに行きました。
そんなちょっと毛色の変わったことを経験させてくれたのもまたAARだったんです。

和平協定に至っていたとはいえそれこそ最悪の事態がないとは限らないわけですよね。
面接の折に「ご家族のご理解は?」とは聞かれました。
私は、「万一が何かあっても、今は子どもも大学生になったし、とにかく私がいなくても大丈夫」「家族の状況も大丈夫なので、今ならできると思います」と答えました。

「愛のポシェット」配布からラオス応援団に

これまでは頼まれたときのスポット要員だったのですが、いつのまにか「どっぷり」はまり込んでしまいました(笑)。

応援団を自称するまでなったきっかけとなったのが、AARが行った海外への「愛のポシェット」配布活動でした。
それまでの私の活動の流れからいって、海外に出て活躍するのは若者だというイメージが漠然とありました。
自分にはそんなチャンスもないんだろうなと思っていたときに、チャンスをくださったのも吹浦さんでした。
「開発途上国を訪問したことがない」と吹浦さんに話すと、即座に、「ちょうどラオスに行く人を探していたんだ。是非」と勧められたんです。

AARが初めてラオスにポシェットの配布に入るときに、ラオス側は相馬会長がいらっしゃることを期待されていたそうです。
ところが、会長が難しいということになったとき、吹浦さんに「誰か白髪のあるような貫禄のある人を探している」と言われ、白髪が出始めていたので、畏れ多くも相馬会長の代わりにそのオペレーションの中に入れていただいて、ラオスに行きました。

ラオスの小学校での「愛のポシェット」贈呈式。
持参したビーチボールの地球儀を指さして日本から来たことを伝えた。1999年。

NPO法(特定非営利活動促進法 1998年12月施行)ができ、AARがその法人格を取得したのは2000年のことで、私はそのときからAARの理事の末端に据えていただいているんですけれども、やっぱり役員が現場を見ているということの大事さを痛感します。
「応援というものは、やっぱりそこに足を踏み入れていっしょに呼吸をしている感じがあったほうがいいんだろうな」と。
以来、AARの中でずっとラオス応援団を続けている状態で、先日パスポートを見て数えてみたらこれまでに27回もラオスに行っていました。

ラオスで学校を作る

ラオスで学校をつくるというものに関わったときに、当時の大使が非常に赴任国に思い入れのある大使でいらっしゃいました。
一定以上の年齢の者がNGOで入ってくるのは珍しかったのか、いろいろお力を貸してくださって、学校をつくりたいという話を申し上げたときにもお知恵を貸してくださいました。

学校を作るときには、なるべく現地調達でやっていきたいと考えました。
私は東京の応援団だと言いながら設計図一つ見られるわけではありませんが、唯一、私が読めた字でアスベストという単語を発見しちゃったんです。
「ちょっと待って。これアスベストを使うの?」と。
日本では良くないと言い出していたころだったものですから「これは止めない?」と現地のスタッフに伝えました。
「東京で今、学校をつくるのだったら、絶対にアスベストは使えない」と。
けれども、現地の担当者にしてみると早くプロジェクトを進めたいわけです。
代替建材をバンコクから入れるとしたら、お金もものすごくかかるし、それに世界銀行の基準を満たしているんだから、ということで侃々諤々の議論になりました。

「世銀基準はクリアしていても、私は自分の子どもを行かせたくないような学校にはしたくない」。
資金はこちらが出すんだから、現地の人への影響を二の次にはできないと。
もうそのときのやりとりが大変で。
その当時はファクスでしたが、取っておけば本になるかというぐらい、ずいぶん、担当者と議論をしました。

「お金がかかる」と言われて、「それが応援団の仕事。私は当時のAAR理事長・柳瀬房子さん(現・AAR名誉会長、さぽうと21最高顧問)にお願いして資金を何とかしていただきましょう」と返しました。バザーかチャリティーコンサートのお手伝いを覚悟して……。

学校設立の資金を支援してくださっていた団体にも、工期が遅れるとことについてご理解をいただきたいとお詫びをいたしました。
吹浦さんにも話をしたら「壊すときや修理する度に、これをつくったのは誰だと言われないものにしなさい」と言われ、意を強くして、アスベストフリーの学校が出来上がりました。

ミャンマー、タイ、カンボジアへ

ミャンマーにも3回は行きましたし、カンボジアにはスタディツアーなどで行ったのとは別に、変わった経緯で行きました。
あるときカンボジアにいた日本人スタッフの体調が悪くなり、タイのバンコクまで搬送されたんです。
お見舞いのためにバンコクに出張しました。
原因が分かり治療もできるという状態になって、ひとまずは安心でしたが、急遽、私が現地スタッフの給料を支払うためにカンボジアに行かねばならなくなってしまいました。

まだ今とは違って、大きなお弁当箱のような重量もある携帯(大振りだった時代です)を持たされました。
その着信音が響いたとき「これは誰が取るの?」と思ったくらい携帯には慣れていませんでした。
東京から柳瀬さんの声で、「今、いくら持っている?実は向こうのスタッフにお給料を払わなきゃならないんだけれども」と。
「これぐらい持っています」と言うと、「それだけあったら十分だわ。本当に申し訳ないけれど明日、プノンペンに行って渡してきてほしいの……」と言われました。
「カンボジアに日帰りなんて怪しまれるんじゃないかしら」と思ったりもしましたが、今から考えますと可笑しいですね。
バンコクにお見舞い、その足でカンボジアのプノンペン日帰り往復なんて!そんな経験をさせてくれたのもAARです。

相馬先生と

相馬会長は晩年、軽井沢にお住まいでした。
いつも私が係として東京駅にお迎えに行っていたんです。大変な役得だと思っていました。
東京駅からタクシーに乗って、その日の講演会やイベントの会場までごいっしょしました。
そんな何でもないときにも、やっぱり先生の凜としたものが感じられました。

ポシェットの配布でも、まだ先生ご自身が海外にいらしていたころに、私の娘がボランティアとしてポシェット配布に加わりました。
空港で相馬先生に「先生、お荷物をお持ちしましょう」と言ったら、「自分で持てない物は持ってないから大丈夫」とおっしゃったそうです。
先生の気骨というか、凜となさっているところに、娘は大変心動かされたようです。

そんな立派な先生にもごくごくかわいらしいところ(失礼!)がおありでした。
ある日お召しになっていたブラウスの「リボンが曲がっているんだけれども」とおっしゃるんです。
結び直して差し上げましたが、なかなか「よい」とは仰らない、「まだ曲がっていない?」とか「左右のバランスが……」と。
それで散々直して、ようやくお気に召した状態になったときに「自分じゃできなくなったのに、口だけは達者でね」なんてニコッと。

相馬先生は、お子さんたちをお連れになって「満州」(現・中国東北部)から大変な思いをして引き揚げていらした方でした。
だからまさに難民の人たちのことは他人ごとではない。
チャリティという感覚じゃなくて、やっぱり自分のこととしてとらえていらしたんだと思います。
一歩違っていれば、自分たちもどんなふうになったか分からないという思いでいらしたんでしょうね。
お子さんたちを背中に背負ったり、手を引いたりしながら船に乗って帰っていらしたというご自身の経験が、日本にたどり着いた難民に対して心を寄せられた原点の一つだったのではないかと思っています。

AARをゼロからスタートされて、それは気丈な方でした。
私は60歳になったときに「先生、私ももう歳です。還暦ですもの」と申し上げたら、「あなた何を言ってんのよ。私がAARを始めたのは67歳でしたよ」とおっしゃって。
「人間、死ぬまで、ご飯を食べるでしょ、生きている限りは働かなくてはいけない」とおっしゃいました。直接お話ができたというのは非常に幸せなことだと思っています。

さばさばした方でもありました。例えば、AARも規模が大きくなるにつれ様々なことがありますから、車に乗っているときに「あなた、あの一件はどうなっているの? どっちがどうなの?」というようなことを聞かれたこともありました。
事実は何なのか、とね。でも、そこのところを私に聞かれても困るということもありますでしょ?それで、私が何か説明すると「それはあなた、外向きのことでしょう」「それを私に言ってどうするの?」とはっきりおっしゃるんです。
でも、その次には「分かったわ。これ以上、あなたに聞いても、あなたが困るのね」と言って私の立場をご理解くださったのです。
すごい人というのは、こういう些細なところが違うのだと思うことがたくさんありました。
詳細は思い出せない部分もあるんですけれども、それでもそれを直接感じられたのは、なんてラッキーだったんだろうと思いますね。

AARとさぽうと21

インタビュー中の高橋さん。

AARに職員として新しく入ってくる人は、往々にして海外志向ですよね。外国に行って活躍したい、貢献したいという人が多い。
ですが、新人には海外だけではなく「日本にも難民として来て定住している人たちがいるということを現実として知ってほしい」と伝えています。
逆に、さぽうと21では、どうしても日本にいる人たちに重きが置かれるので、「それぞれの出身国が今どうなっているのか」といったことにも目を向けて欲しいと思います。

AARではシリア出身の方も働いていれば、アフガニスタンから一時帰国中の人やナイジェリアやコンゴ民主共和国駐在中の人もいるのだから、外国にも目を向けて欲しいと思います。
その気になればいくらでもリソースになる人はいるわけです。
それは同じ建物の6階と7階のメリットであって、AARに行けば言葉のことでも希少言語の通訳をしていただいたり、その国の事情が分かるというメリットもあるわけです。
もちろん十分に配慮しないでやってしまうと、本国から来ている人は日本に逃れて来ている難民からすれば会いたくないかもしれない。
それぞれ対象にしている相手が違うことはもちろん配慮しなければいけないと思っています。

さぽうと21にはボランティアにもスタッフにも青年海外協力隊の出身者がいます。
AARにも同様に協力隊OB・OGの方が増えているということもあって、一時期よりは交流ができているように思います。
AARもさぽうと21も職員やボランティア同士の交流ができるように働きかけて、今まさにそんな風を吹かせたいと思って動いています。

例えば、さぽうと21の生活支援プログラムの夏の研修会などにも、AARの応援を頼むようにしています。
それは、単に人手が足りないから応援を頼まれていると思われるかもしれませんが、私からすれば「こういう現場もあるのだ」ということを知って欲しい、必ずしも自分たちが支援に入っている海外の現場だけではないということを知ってもらいたいわけです。

現実問題、AARの「新人さん」には、土曜日に行われているさぽうと21の学習支援室に一度は見学に来てもらいたいと思っております。
また、夏の研修会に来てくれるAARのスタッフは毎年2、3人程度ですが、お互いに何か必要なことがあったときには反応してくれるのではないかなと思っています。
せっかく日本国内と海外の難民問題にそれぞれの団体が専門的に深く係わっているのですから、お互いにもっと交流を深めそれぞれを上手に利用してもらえればと願っております。

次の世代、次の社会へ

現在すごく意識していることは、「これまで私自身が経験してきたようなことを、どう次の人たちに引き継いでいくか」です。

我々が思うところの「日本人」だけではやっていけない時代にますますなってきている中で、誰にとっても住みやすい、ハード面でもソフト面でも、バリアフリーな社会になっていけばいいと思っています。

今回、こうやってあらためて振り返ってみると、本当にありがたい稀有な経験をいっぱいさせていただいたことがわかります。
それに、一つひとつはとても異質なことをやっているようでいて、見事に、あれもこれもみんな積み重なってきているんです。
そんなありがたい経験をさせていただいているけれども、私にいろんなチャンスを与えてくださった方にも、指導してくださった方にも、菓子折りを持ってご挨拶に行ったってしょうがないわけです。

だったら、私に与えられた場があれば、私にできることを愚直でも精いっぱいやっていくし、それをみんなでシェアしていければいいな、という思いでいるわけです。


この記事は、難民を助ける会+さぽうと21 創設40周年記念誌『日本発国際NGOを創った人たちの記録』の記事からウェブサイト用に抜粋したものです。
この記事の聞き手は伴野崇生。

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